教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

自分はどんな「キャラ」でいるべきか――『キャラ化する/される子どもたち』

岩波書店の「岩波ブックレット」シリーズは、少ないページ数と安価な値段で現代社会の問題をわかりやすく説明してくれており、気になる問題の入門書としては格好のお手軽さであるが、土井隆義氏の『キャラ化する/される子どもたち』という本は、日本という…

タコツボ化した日本の近代――『日本の思想』

教養書を読んでいると、しばしば「タコツボ化」という表現と出くわすことがある。これは丸山真男氏が提唱した、近代以降の日本の社会や文化を象徴する性質を表わしたものであるが、その著書である『日本の思想』を読むと、どのような思考の経緯をたどってそ…

男女の違いを科学する――『科学でわかる男と女の心と脳』

私のこれまでの人生において、およそ仕事においても、またプライベートにおいても、女性と付き合っていると、しばしば不可解というか、何を考えているのかよくわからなくなるようなことが、少なくとも男同士のつきあいと比べて感じることが多かった。そのた…

「マイカー」という言葉の醜悪さ――『自動車の社会的費用』

車輪という構造は、ごく一部の微生物を除いて、およそ生物界には存在し得ないものである。少なくとも人の目に見える大きさの生物のなかで、その移動手段として車輪という構造をもつものはいない。人が何かを発明するさいに、既存の生物を模倣することからは…

「正常」と「異常」の境界線の遷移について

あえてタイトルに「正常」と「異常」という単語を使ったが、具体的に言えば、私たち人間の心の状態を指していると考えてほしい。その人の精神が健康な状態なのか、あるいは何らかの「病気」にかかっているのか――それは身体的な症状として、比較的わかりやす…

失われた「大きな物語」を求めて――『定本 物語消費論』

最近、私のなかで「物語を消費する」という表現がどうにも気になっているのは、他ならぬ私自身が物語を消費しているという自覚があるからに他ならない。小説や漫画、アニメ、ゲーム、最近では某動画サイトに投稿される二次創作物といったコンテンツは、かつ…

「デキル人」から「デキタ人」へ――『マジメすぎて、苦しい人たち』

たとえば、フロイトによって無意識の領域が発見され、それに「無意識」という名称がつけられるまで、人々はこの世界に「無意識」なるものが存在することを知らなかった。それまで未分類のものであったものが、名前をつけられて人間の理性の領域に分類される…

贈り物としての情報――『街場のメディア論』

内田樹氏の著作については、一時期ずいぶんと入れ込んでいたことがあった。さすがに今はそれほどではなくなっているのだが、当時「まぎれもない自分」というものについて悩んでいたさいに、「そんなものはない」という回答に行き着くことになったきっかけと…

知的対話の面白さ――『ぼくらの頭脳の鍛え方』

現代の知識人を代表するであろう立花隆氏と佐藤優氏が、「必読の教養書400冊」というサブタイトルをつけて著した『ぼくらの頭脳の鍛え方』という本を、「教養書のお勧め本」というくくりで捉えた場合、ほぼ間違いなくこのブログの存在意義は失われてしまう。…

誰もやらないことをやるということ――『職業は武装解除』

およそ教養書にかぎった話ではないが、本を読んでいて面白いと思うのは、普通であれば出会うことはおろか、もしかしたらその存在すら知りえなかったかもしれない人々と、間接的にではあるが知り合うことができるということである。そして、何らかの形でその…

法を理解する入り口として――『法と社会』

碧海純一氏の『法と社会』については、ずいぶん昔に一度読んだことがあったのだが、このブログへのエントリーとしてあらためて再読してみてわかったのは、この本があくまで「法の入門書」として書かれているという点である。つまり著者は、一般教養としての…

「教養」はいかに「プチ化」したか――『教養主義の没落』

以前の教養書エントリーで紹介した岡本浩一氏の『権威主義の正体』では、「権威」と「権威主義」を明確に区別しようとする意図があった。とくに後者については、本来的な権威をもっていないにもかかわらず、まるでそれがあるかのように振る舞う、いわば偽物…

自然とフェアネスに向き合うこと――『サバイバル登山入門』

今の世のなかにおいて、「貨幣」はそれ自体がもつ物質的価値と比べて、各段に高い価値をもって私たちのあいだを流通している。日本の景気がいつまで経っても回復しない、少なくとも、私のような庶民が「景気が良い」と感じられないのは、誰もが先行きの不安…

日本の歩みをざっとおさらいするために――『日本という国』

小熊英二氏の書いた『日本という国』という本は、「よりみちパン!セ」と呼ばれるシリーズのひとつである。出版社は理論社(現在はイースト・プレスにシリーズごと引っ越し、復刊をはたしている)。理論社といえば、会社名こそ堅苦しいが、じつは児童書を中…

日本語の意味の変遷をたどる――『日本語の年輪』

私たちがよく知っている日本語であるにもかかわらず、もはやその日本語がもっていたニュアンスを想像することが難しくなっている単語というものがある。たとえば「かすか」と「ほのか」の区別、たとえば「わび」と「さび」の区別など、今ではどちらも似たよ…

一緒にタイトルで悩みましょう――『ぐっとくる題名』

私は文章を書くことそのものは嫌いではない。むしろ好んで文章を書くようなところさえあるのだが、その代わりと言っては変だが、書いた文章にうまいタイトルをつけるのが昔から苦手だった。思えばこれは、小学校の読書感想文のころからのこの傾向があり、い…

バブル経済は私たちから何を隠していたのか

ブログタイトルだけを捉えると、まるでバブル経済が何らかの意志をもって私たちから何かを見えないようにしていたかのように思われるが、じっさいにはバブル経済が弾けたことによって、それまではささいな事柄として放っておかれたさまざまな問題が、人びと…

不況なのは経済だけではない――『生きる意味』

文化人類学者の上田紀行氏の名前を知ったのは、以前にエントリーした『池上彰の教養のススメ』という教養書のなかでのことであるが、そのなかで彼が、日本人は無宗教なのではなく、「会社」という名の宗教を信仰している、と語っていたことが、私のなかで深…

終わるに終われない「戦後」――『永続敗戦論』

たとえば、「自衛隊」というものが日本にはある。これは、はっきり言ってしまえば日本の「軍隊」に他ならないものだと私は思っているのだが、日本の憲法では「軍隊」をもつことは禁じられている。仮に、「自衛隊」という言葉を知らない外国人があの組織を見…

経済学者から見た経済のカタチ――『経済学という教養』

不況とは、モノやサービスが売れないことであり、社会全体の需要が低下している状態のことを指す。いくら商品をつくり、あるいは新しいサービスを開始しても、消費者がそれを買おうとしない――「モノが売れない」という言葉は、もうあまりに耳にしすぎていて…

どうやって齢相応になるのか――『「若作りうつ」社会』

私は不惑を超えたオッサンであるが、文字どおり惑わないような生き方をしているかと問われれば、じつはこの年になっても迷ってばかりいることを告白しなければならない。自分はもう若くはないという自覚はあるものの、何となく若いときの精神のまま年だけ積…

世界を変える単純な方法――『ペイ・フォワード』

今回のエントリーで取り上げるのは、教養書ではなく小説なのだが、世界をより良い方向に変えていくにはどうすればいいのか、という命題に対して、おそらくもっとも単純で、だからこそ難しい方法が書かれている。キャサリン・ライアン・ハイド氏の『ペイ・フ…

信念と勇気をもって愛せよ――『愛するということ』

愛とは何なのか、という疑問がふと頭をよぎることがある。もともと「愛」という言葉は、明治時代に西欧から輸入された概念であり、それゆえに日本人には理解しがたいものだという意識は前からあったが、おそらく私も含めた大半の日本人にとって、「愛」=「…

「権威」と「権威主義」の違い――『権威主義の正体』

たとえば、私たちは病気になれば医者に診てもらう。これは医者が病気を治療するプロであり、その道の権威であることを私たちが信じているからに他ならない。病気になったときに、医学のことを何も知らない素人が、何の知識もないままに治療を行なえば、回復…

無限に富を増やすことの限界――『資本主義の終焉と歴史の危機』

教養書を読んでいると、いろいろな書き手たちが、扱うテーマこそ違うが共通して訴えていることが見えてくる。その最たるものが、資本主義という制度がもはや限界を迎えている、というものである。より具体的な表現で言うなら、金儲け一辺倒なやり方に、人び…

「戦後」を象徴する世代――『共同研究 団塊の世代とは何か』

ネットにおいて「団塊の世代」という表現は、そのほとんどが相手を悪く言うために使われている、という印象がある。少なくとも、良い意味で使われているという感じはしない。というより、およそネット上における「団塊の世代」に対する嫌悪ぶりは、ある意味…

本当の教養とは「ムダ」なもの――『池上彰の教養のススメ』

およそ教養書をお勧めするブログであるからには、『池上彰の教養のススメ』という本を外すわけにはいかないと思っていた。もっとも、この本のことを知ったのは、このブログをはじめてからのことで、自分の思いつきというのは得てして他の誰かがすでに思いつ…

まったく新しいものを生み出すということ――『今日の芸術』

岡本太郎という芸術家についての本を、ずっと読みたいと思っていた。それはたとえば、テレビのなかで「芸術は爆発だ」と叫んでいた岡本太郎というイメージが、私の知るすべてだという事実に対する不満もあったが、何より教養書を読んでいると、けっこういろ…

既読と未読の境界線とは――『読んでいない本について堂々と語る方法』

このブログは、私がこれまで読んできた「教養書」にあたる本を片っ端から紹介していくことを目的としているが、たとえばずっと昔に読んだことのある本のことを、いざ紹介しようとしたときに、ふとその内容についてほとんど覚えていないことがある。慌ててそ…

インターネットという名の「新大陸」――『ネットが生んだ文化-誰もが表現者の時代-』

インターネットというものにはじめて触れたのは、私が大学生のころだった。そのときは、まだ一部の大手企業が実験的に自社のウェブサイトを公開している程度で、大学のコンピュータでそうしたページをぼんやり眺めては、「こういうものがあるのか」といった…