教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

「アンガーマネジメント」と「受動意識仮説」のしっくりくる組み合わせ

 図書館の検索機械で「アンガーマネージメント」と入力すると、出てくる一覧の多くが「貸出中」になっていて、怒りをどうコントロールするのかという命題に対する関心の高さをふと感じた。

 スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』でも、世界的に暴力行為は減少傾向にあり、人々は暴力を振るうことを「恥ずべき行為」として受け止めつつある、と書かれている。だが、暴力への嫌悪感と、怒りの抑制とは別の話だ。いつ、どんなタイミングで感情が乱れ、カッとなって暴力を振るいそうになったり、あるいは暴言を吐きそうになったりするのかは本人にもわからないし、その衝動は人間的というよりは動物的なものでもあるがゆえに、そもそもコントロールなどできるのだろうか、とも思ってしまう。

 ふとしたきっかけで怒りの感情に支配されてしまう――それは、私自身だって例外ではないし、だからこそ私は自分を含めた人間が嫌いなのだが、私にとってのアンガーマネジメントは、自分という感覚がただの幻でしかないという仮説を受け入れることである。これは、前野隆司が『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房)のなかで、「受動意識仮説」という名称で提唱しているものだ。

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オレオレ詐欺と資本主義に対するモヤッとした気分の正体

 以前、鈴木大介の『老人食い』という本を読んだ時に、妙にモヤッとした気分になったことを覚えている。ちくま新書で出版されたこの本は、サブタイトルに「高齢者を狙う詐欺の正体」とあるように、昨今話題となっている、高齢者をターゲットにした「オレオレ詐欺」を行なうグループの手口を書いたノンフィクションであるが、その巧妙かつ組織的な詐欺の仕組みもさることながら、何よりも詐欺の加害者である青年たちが一様に、自分たちはむしろ被害者であり、本来なら自分たちに回ってくるはずの金を取り戻しているだけだ、という罪の意識のなさに、何よりもモヤッとさせられたのだ。

toncyuu.hatenablog.com

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安定を望むということ――『転がる香港に苔は生えない』

 本を読んでいると、ときどき、一度も行ったことのない国のことが書かれているにもかかわらず、まるで自分がその国で生活してきたかのような感覚に陥ることがある。そしてそういう時、その本は私にとって、おそらく海外旅行に行く以上の価値をもたらしてくれるものとなる。今回紹介する、星野博美の『転がる香港に苔は生えない』は、まさにそんな本だと言っていい。

 安くていい物を消費者のみなさんに提供する。そんなめでたい話はこの街では通用しない。安いものは悪くてかまわない。なぜなら安い物を買う人間には、安い物を買う以外に選択肢がないからである。金がない人間には正当な扱いを受ける資格はない。悔しかったら、金を出せばいいだけなのだ。
(中略)
 しかしそんなことは実は驚くには値しない。それこそ資本主義の原点なのである。人より金があれば、人よりいい物を手に入れることができる。だから人より金を得ようとする。私はその原点を香港で学んだことより、自分が一応資本主義社会を自認する日本に暮らしながらその原点を学ばなかったことの方に驚いた。(『転がる香港に苔は生えない』より)

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「自然に生きる」ということ

 私たちはこの世に生まれた瞬間から、大自然から認められた「生きていていい命」である、というのは、名取芳彦の『気にしない練習』という本の言葉である。お寺の住職を勤めている、いかにもお坊さんらしい言葉だが、私たちを構成する肉や骨、内臓も含めた、身体のありとあらゆるものが、自分の努力以前のもの、言ってみれば天然自然の贈り物である、という発想は、他ならぬ自分自身の存在を、自然から与えられたものであるという、ただそれだけの理由で全肯定してかまわない、という考え方が前提にあるからこそのものだ。

 自然から生じたものには偽りがない。私たちの身近にいるどんな虫や草も、何ひとつ無駄なものがなく、無駄がないからこそ、必要のない場所からはいなくなる。だからこそ、そんな自然が全肯定してくれた人間の身体にもまた偽りがなく、存在そのものが全肯定される。これが仏教の考え方だということなのだが、もし、私たちが今、自分の存在を肯定できないでいるとしたら――たとえば、何かに満足できなかったり、不安を感じていたりするのであれば、それは私たちが自然でない生き方をしているから、ということになるのだろうか。

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世界と折り合いをつける脳――『養老孟司の人間科学講義』

 ほんの数年前まで、私は「まぎれもない自分自身」というものがどこかにあるはずだ、と信じて疑っていなかったし、それをずっと探し求めるような生き方をしていた。今にして思えば、自分というものについて、ずっと漠然とした不安定さを感じていたのだろう。世の中のあらゆるものが変化していっても、自分のなかにあるはずの、不変にして普遍なる何か――それを確定することができれば、おそらく自分の人生をより自信をもって生きていくことができるのではないかと、そんなことを考えていたように思う。

 もちろん今では、そんなことは思っていない。「まぎれもない自分自身」などというものはない。少なくとも、自分の内側にそんなもの存在しないということを私は知っている。だが、その認識は不思議なことに、私をより不安定なものにするのではなく、むしろ安定させる役割を果たしている。それは、自分がまぎれもない、つまりは不変の自分であることに、ことさらこだわる必要はないということであり、またそれが一面の真理でもあるからだろうと勝手に思っている。むしろ、なぜ自分は「まぎれもない自分自身」などというものを信じていたのだろう、というのが、新たな疑問として浮かんでいる。なぜなら、以前の私に限らず、自分というものが不変であると思い込んでいる人は、世の中の大半を占めているように見えるからだ。そして、そうした謎に迫るためのヒントを提示してくれるのが、『養老孟司の人間科学講義』という本である。

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見ているのは「指」か「月」か――『なぜ、あの人と話がかみ合わないのか』

 ある人が面白いと思って貸してくれた本が、自分にとってはさほど面白いと思えなかったりする場合がよくある。同じ内容の本を読んでいるはずなのに、なぜその人と自分のあいだで正反対の意見になってしまうのか、というのは、私にとってはけっこう重要なテーマのひとつとなっているのだが、その回答のヒントが、細谷功の『なぜ、あの人と話がかみ合わないのか』という本のなかにあった。

 本書はそのタイトルからも明らかなように、コミュニケーションギャップを扱った本だ。だが、他の数多くあるその手の本のなかでも、本書はその立ち位置が独特である。それは、そもそも話がかみ合わないのはあたり前だという点から出発し、それを理解した上で、そこから何ができるのかを考えていこうという姿勢である。

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それはどのレベルの話なのか――『具体と抽象』

 小説を読むことのメリットのひとつに、「登場人物との対話」というものがある。自分というちっぽけな存在の、ごく限られた一生のなかで、出会うことのできる人はごく限られている。だが小説は、ときに場所や時間さえも超えて、さまざまな人たちと対話し、交流することができる。だからこそ、小説を読むことには意味があるのだ、と私を含む読書家たちは語るのだが、ふだん小説を読まない人たちに、往々にしてそうした意見を理解することは難しい。なぜなら彼らにとって、小説とはフィクションであり、しょせんは作り話でしかない、という意識があるからだ。どれだけ素晴らしい人間の心理や機微が書かれていたところで、それはけっして現実ではないし、他ならぬ自身の経験として味わったわけでもない。そんな紛い物の作り話に、いったい何の価値があるのか、と。

 こうした断絶は、別に小説を読むことの意味だけにとどまらない。世の中を見渡してみれば、多くの場面で似たような意見の齟齬や食い違いが起こり、一方が他方のことを理解不能な異星人であるかのように思い込んでしまうことが多々ある。ときには、その食い違いが暴力や排除にさえつながってしまうことがあるのは、人間の過去の歴史が証明している。細谷功の『具体と抽象』は、そうした意見の食い違いがなぜ起こるのかを、「具体性」と「抽象性」というキーワードから探っている本である。そして著者によれば、物事を抽象化する能力こそが、人間を人間たらしめているものだと語る。

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