教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

安定を望むということ――『転がる香港に苔は生えない』

 本を読んでいると、ときどき、一度も行ったことのない国のことが書かれているにもかかわらず、まるで自分がその国で生活してきたかのような感覚に陥ることがある。そしてそういう時、その本は私にとって、おそらく海外旅行に行く以上の価値をもたらしてくれるものとなる。今回紹介する、星野博美の『転がる香港に苔は生えない』は、まさにそんな本だと言っていい。

 安くていい物を消費者のみなさんに提供する。そんなめでたい話はこの街では通用しない。安いものは悪くてかまわない。なぜなら安い物を買う人間には、安い物を買う以外に選択肢がないからである。金がない人間には正当な扱いを受ける資格はない。悔しかったら、金を出せばいいだけなのだ。
(中略)
 しかしそんなことは実は驚くには値しない。それこそ資本主義の原点なのである。人より金があれば、人よりいい物を手に入れることができる。だから人より金を得ようとする。私はその原点を香港で学んだことより、自分が一応資本主義社会を自認する日本に暮らしながらその原点を学ばなかったことの方に驚いた。(『転がる香港に苔は生えない』より)

 イギリスの植民地だった香港が中国に返還されたのが、1997年7月1日。まさにその返還前後の激動の香港を、当地に居を構え、香港人と生活を共にすることで感じとろうとした著者の、渾身のルポタージュだ。そしてそこには、香港人たちのたしかな生活の匂いが感じられる。おそろしくしたたかで、自己主張が激しく、けっして妥協せず他人とぶつかることを厭わない香港人、金を儲けることに執着し、少しでもより良い場所へと這い上がろうとすることこそが人としての価値だと信じて疑わない、貪欲な生き方をする香港人、しかしそのくせ、人とのつながりを重視し、そのつながりのなかにおいては金銭を超えて助け合い、また助けてもらおうとする、非常に賑やかで、周りに人がいないと寂しくて生きていけない香港人――そこに書かれているのは、日本人としてのあり方とはあまりにも異なる思考であり、価値観である。そして私たちは、香港という街と、そこに生きる香港人の姿を通じて、否応なく自分たち日本人のことを考えずにはいられなくなる。

 国が違えば、そこに住む人たちの価値観が違うのも当然だ。だが、ふだんから日本という国に生きている私が、自身の価値観が他ならぬ日本という国の影響を受けているということを、意識することはない。ともすると、明日住む場所がなくなるかもしれない、という切迫感に晒されている香港人にとって、日本人こそが非常識で異質に思えるかもしれない――そんなふうに、自身を客観視すること、そして日本人としての常識が、必ずしも世界の常識とつながるわけではないということを、この本は何よりも雄弁に物語る。

 すべてのものは変わっていく。永遠に変わらないものなど何一つない。予期しない変化を嘆いたところでどうしようもない。ただその中で自分が生き残ることだけを考えて前に進む。我々にしてみれば、それほどの緊張感を持続させながら生きるのは並大抵のことではないが、香港ではこれが、朝起きたら顔を洗って歯を磨くと同じくらいの、日常の大前提なのである。
 ――(中略)――
 そんな彼らのしなやかな生きざまを見ていると、次から次へと押し寄せる変化を前にただおろおろするばかりで、時には攻撃的に硬直していく我々は、やはり千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで変わらない安定を望む人々なのだなと思った。(『転がる香港に苔は生えない』より)

 常に他国の思惑に翻弄され、急激な流れのなかに晒され続けてきた香港という街は、人間が生み出した都市でありながら、どうしようもなく雑然として秩序だっていない。それは、例えば碁盤目状に整備された日本の京都の街並みとは、対極に位置するものだ。そもそも都市というものは、それを制御する法が常にセットでなければならない。ある人がある場所を、契約行為によって所有したとする。だが、その契約行為が法で守られていなければ、その都市の秩序は早晩破綻し、暴力がすべてを支配する世紀末になってしまう。

 法があり、それを国家が保証する――変化することが常である自然のなかで、私たち人間は自然から切り離され、人間だけで築き上げたルールに従って生きることで安心を得る。その象徴が都市であるとすれば、本書を読んで喚起される香港という都市は、言い換えればあまりに「人間臭い」ものである。そして、だからこそ著者は香港という都市に惹かれずにはいられない。

 そう、香港では法ですら不変ではない。いっけん彼らが絶対の信頼を置いている金ですら、時に紙くずに変わる可能性があることを彼らは知っている。不変でないということは、信頼できないということであり、それゆえに安心できないということでもある。だが逆に言えば、それこそが変化を常とする自然の本質でもあるのだ。

 私は常々、自然体で生きたいという願望を抱いている。だが同時に、自然体であるということの暴力に、自分がどこまで耐えられるのだろうか、という疑念もある。本書は図らずも、香港という都市を通じて、変化する自然の厳しさを私に突きつけて来た。苔も生える暇のない、転がり続ける石になること――自然とはおよそ無縁そうに見える香港が、じつはこのうえなく自然と寄り添っているという矛盾は、このうえなく興味深い。