2015-10-01から1ヶ月間の記事一覧
碧海純一氏の『法と社会』については、ずいぶん昔に一度読んだことがあったのだが、このブログへのエントリーとしてあらためて再読してみてわかったのは、この本があくまで「法の入門書」として書かれているという点である。つまり著者は、一般教養としての…
以前の教養書エントリーで紹介した岡本浩一氏の『権威主義の正体』では、「権威」と「権威主義」を明確に区別しようとする意図があった。とくに後者については、本来的な権威をもっていないにもかかわらず、まるでそれがあるかのように振る舞う、いわば偽物…
今の世のなかにおいて、「貨幣」はそれ自体がもつ物質的価値と比べて、各段に高い価値をもって私たちのあいだを流通している。日本の景気がいつまで経っても回復しない、少なくとも、私のような庶民が「景気が良い」と感じられないのは、誰もが先行きの不安…
小熊英二氏の書いた『日本という国』という本は、「よりみちパン!セ」と呼ばれるシリーズのひとつである。出版社は理論社(現在はイースト・プレスにシリーズごと引っ越し、復刊をはたしている)。理論社といえば、会社名こそ堅苦しいが、じつは児童書を中…
私たちがよく知っている日本語であるにもかかわらず、もはやその日本語がもっていたニュアンスを想像することが難しくなっている単語というものがある。たとえば「かすか」と「ほのか」の区別、たとえば「わび」と「さび」の区別など、今ではどちらも似たよ…
私は文章を書くことそのものは嫌いではない。むしろ好んで文章を書くようなところさえあるのだが、その代わりと言っては変だが、書いた文章にうまいタイトルをつけるのが昔から苦手だった。思えばこれは、小学校の読書感想文のころからのこの傾向があり、い…
ブログタイトルだけを捉えると、まるでバブル経済が何らかの意志をもって私たちから何かを見えないようにしていたかのように思われるが、じっさいにはバブル経済が弾けたことによって、それまではささいな事柄として放っておかれたさまざまな問題が、人びと…
文化人類学者の上田紀行氏の名前を知ったのは、以前にエントリーした『池上彰の教養のススメ』という教養書のなかでのことであるが、そのなかで彼が、日本人は無宗教なのではなく、「会社」という名の宗教を信仰している、と語っていたことが、私のなかで深…
たとえば、「自衛隊」というものが日本にはある。これは、はっきり言ってしまえば日本の「軍隊」に他ならないものだと私は思っているのだが、日本の憲法では「軍隊」をもつことは禁じられている。仮に、「自衛隊」という言葉を知らない外国人があの組織を見…
不況とは、モノやサービスが売れないことであり、社会全体の需要が低下している状態のことを指す。いくら商品をつくり、あるいは新しいサービスを開始しても、消費者がそれを買おうとしない――「モノが売れない」という言葉は、もうあまりに耳にしすぎていて…
私は不惑を超えたオッサンであるが、文字どおり惑わないような生き方をしているかと問われれば、じつはこの年になっても迷ってばかりいることを告白しなければならない。自分はもう若くはないという自覚はあるものの、何となく若いときの精神のまま年だけ積…
今回のエントリーで取り上げるのは、教養書ではなく小説なのだが、世界をより良い方向に変えていくにはどうすればいいのか、という命題に対して、おそらくもっとも単純で、だからこそ難しい方法が書かれている。キャサリン・ライアン・ハイド氏の『ペイ・フ…
愛とは何なのか、という疑問がふと頭をよぎることがある。もともと「愛」という言葉は、明治時代に西欧から輸入された概念であり、それゆえに日本人には理解しがたいものだという意識は前からあったが、おそらく私も含めた大半の日本人にとって、「愛」=「…
たとえば、私たちは病気になれば医者に診てもらう。これは医者が病気を治療するプロであり、その道の権威であることを私たちが信じているからに他ならない。病気になったときに、医学のことを何も知らない素人が、何の知識もないままに治療を行なえば、回復…
教養書を読んでいると、いろいろな書き手たちが、扱うテーマこそ違うが共通して訴えていることが見えてくる。その最たるものが、資本主義という制度がもはや限界を迎えている、というものである。より具体的な表現で言うなら、金儲け一辺倒なやり方に、人び…
ネットにおいて「団塊の世代」という表現は、そのほとんどが相手を悪く言うために使われている、という印象がある。少なくとも、良い意味で使われているという感じはしない。というより、およそネット上における「団塊の世代」に対する嫌悪ぶりは、ある意味…
およそ教養書をお勧めするブログであるからには、『池上彰の教養のススメ』という本を外すわけにはいかないと思っていた。もっとも、この本のことを知ったのは、このブログをはじめてからのことで、自分の思いつきというのは得てして他の誰かがすでに思いつ…
岡本太郎という芸術家についての本を、ずっと読みたいと思っていた。それはたとえば、テレビのなかで「芸術は爆発だ」と叫んでいた岡本太郎というイメージが、私の知るすべてだという事実に対する不満もあったが、何より教養書を読んでいると、けっこういろ…
このブログは、私がこれまで読んできた「教養書」にあたる本を片っ端から紹介していくことを目的としているが、たとえばずっと昔に読んだことのある本のことを、いざ紹介しようとしたときに、ふとその内容についてほとんど覚えていないことがある。慌ててそ…
インターネットというものにはじめて触れたのは、私が大学生のころだった。そのときは、まだ一部の大手企業が実験的に自社のウェブサイトを公開している程度で、大学のコンピュータでそうしたページをぼんやり眺めては、「こういうものがあるのか」といった…
前回の教養書エントリーで取りあげた小松貴氏の『裏山の奇人』は、長野の「裏山」という、ごくありふれた場所に生息する虫たちの不思議を取り上げた良書である。そしてこの本で著者自身も語っているように、私たちの住む世界には、まだまだよくわかっていな…
科学の発達は、この地球上から未知の領域を確実に奪っていったと思っていた。いまや世界のどこにも、人が足を踏み入れていない場所などない。どんなに深い海の底にも、どんなに高い山の上にも、人は果敢に乗り込んでいき、手付かずの場所を探すことのほうが…
前回の教養書エントリーでは、マーク・ボイル氏の『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を取りあげたが、そのなかで私は、お金に対する嫌悪感について少し触れた。著者がお金を使わずに生きることを決意した背景には、無限に資本を集め、増殖していくこ…
お金とは便利なものだ。お金さえ持っていれば、世の中の大抵のものはそれと交換で手に入れることができる。少なくとも物々交換よりは効率のいい仕組みなのは間違いない。だが同時に、お金とはあくまで「約束事」であって、貨幣や紙幣そのものに価値があるわ…
自分の心の弱さというものに、ときどき自分でもあきれ果ててしまうことがある。こと突発的な出来事に対して、私はすぐに動揺をあらわにしてしまうところがあって、なかなか心を平静に保てないことなどしょっちゅうだ。どんな逆境においてもびくともしないよ…
たとえば「日本語」という言葉を聞いたとき、私たちはひとつの常識として、そこに「日本人」という民族と、「日本国」という国のことを連想する。ひとつの言葉が、ひとつの民族や国家と深く結びついている、というのは、こと言語学の世界では相当に珍しいケ…
小さいころ、私はわりと勉強ができる子どもだった。今では「勉強ができる」ということが、そのまま「頭が良い」ということを意味するわけでないことを知っているが、では人間の頭の良さとは、いったいどういうことを言うのだろう、という疑問は以前からあっ…
子どもの話題に耳を傾けていると、意想外に彼らが下ネタ好きであることを思い知らされる。なぜ小さな子どもたちは、うんこやおならといったものが好きなのだろうか、なんていう疑問に囚われる私は、同時にまたしょうもないことを考えているなあ、とか思って…