教養書のすすめ

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日本語の意味の変遷をたどる――『日本語の年輪』

 私たちがよく知っている日本語であるにもかかわらず、もはやその日本語がもっていたニュアンスを想像することが難しくなっている単語というものがある。たとえば「かすか」と「ほのか」の区別、たとえば「わび」と「さび」の区別など、今ではどちらも似たような意味として捉えてしまっているが、大野晋氏の『日本語の年輪』によれば、かつては厳密な違いがあったのだという。

 

「かすか」とは、今まさに消えていこうとするその薄さ、弱さ、頼りなさであり、「ほのか」とは、そのうしろに多くのものがありながら、その片はしだけが弱く、薄く、わずかに示されている場合にいう。(『日本語の年輪』より)

 

 

 もともとは「こころにくい」という単語の紹介のなかで出てきた「かすか」「ほのか」は、いずれも「薄暗い」という感覚が語源となっている。そして光が乏しくでものがよく見えない、という感覚は、太陽が沈んだ夜であっても、電気の力で昼のように明るい中で生活できる現代の私たちにとっては、もう失われてしまった感覚だと言える。だが、かつての日本人は、薄暗いという状態について、いくつもの表現を生み出し、その微妙なニュアンスを使い分けていた。


 もちろん、それをもって昔の人は繊細だった、今の人は鈍感だ、などと言うつもりはないが、日本語の歴史を紐解くという行為は、日本人としての感じ方や考え方がどのように移り変わっていったのかに迫るということを意味する。かつての日本人は、何に対して「美」を感じ、何を畏れ敬い、あるいはどんなときに祈りをささげたり、願いを託そうとしたのか――それを知ることは、日本語を話し、日本語で読み書きする私にとっては、自分自身を知る手がかりにもなると思っている。なぜなら、私をはじめとする日本人の大半が日本語を母語としており、それゆえに何かを考えるさいにも、日本語という構造にどうしても頼らざるを得ないからである。


 自分が何かを思ったり、感じたりすることは、日本語という言語に大なり小なりの影響を受けているはずなのだ。だからこそ、この本に大きな価値が生まれてくる。「nature」という外来語に出会うまで、自然を「自然」という単語として認識することになかった日本人の心のありようは、たしかに今を生きる日本人の心とつながっている。