教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

「マイカー」という言葉の醜悪さ――『自動車の社会的費用』

 車輪という構造は、ごく一部の微生物を除いて、およそ生物界には存在し得ないものである。少なくとも人の目に見える大きさの生物のなかで、その移動手段として車輪という構造をもつものはいない。人が何かを発明するさいに、既存の生物を模倣することからはじめるというのは、たとえば飛行機の初期の形が鳥の姿をしていたことからもわかるが、では人類はいったい、この車輪という構造をどうやって発明したのだろうか、とふと思うことがある。


 脚を使って移動するのに比べて、車輪というものはごく小さな力を大きな推進力に変えることができる。それだけエネルギー効率が良いということになるのだが、ではなぜ他の生物が車輪という進化を遂げなかったのかと言えば、車輪の弱点がちょっとした凹凸に極端に弱いからに他ならない。これは、階段を車輪でのぼることの困難さを考えれば容易に理解できることだが、人類はこの弱点を、「道路」という平らな道をいたるところに整備することによって解決してきたのだ。


 さて、ここで今回の教養書『自動車の社会的費用』である。宇沢弘文氏によって著されたこの本では、「社会的費用」なる言葉が出てくるが、ごく簡単に説明すると、ある経済活動が社会にどのような影響を及ぼしているかを、金額換算することである。そしてここでいう「影響」とは、もっぱら社会的損失につながるような悪い影響を指している。もっとも典型的な例は、公害による社会的費用だろう。ある公害によってこうむった環境的、人的被害などは、まさにマイナスの費用と言うにふさわしいものがあるが、それと同じものを自動車に当てはめようと試みたのが、この本の書かれた趣旨となっている。


 自動車はたしかに便利な乗り物ではあるが、そのためには上述したように道路が必要であり、その工事のために多くの自然環境が破壊されている。だが、それ以上に著者が指摘しているのは、自動車の普及が人々の市民的権利を大きく侵害しているというものである。歩道と車道が明確に区切られていない道路を「欠陥品」とみなし、歩行者が常に自動車の通行に気を配りながら歩かなければならない状況、かつて子どもたちの遊び場であり、また社交の場でもあった街路を、自動車が我が物顔で走り抜ける状況、そして自動車にではなく歩行者に大きな負担をかける「歩道橋」なる存在――こうしたあらゆるものが、自動車優先の思想であり、それは突きつめれば資本主義優先の社会を物語っているものだとしている。

 

 自家用自動車を「マイカー」という言葉で呼んでいるが、この言葉ほど、自動車に対する日本社会の捉え方を象徴したものはない。他人にどのような迷惑を及ぼそうと自らの利益だけを追う、飽くことをしらない物質的欲望がそのままこの「マイカー」という言葉にあらわされている。(『自動車の社会的費用』より)

 

 言われてみれば、道路を安全に歩くことがままならないというのは、たしかに「普通」のことではないのだが、それはこの本のような視点がなければ、あるいは気づかないままになっていたかもしれないことである。本来であれば守られるべき市民の権利を守るためには、道路建設などにどれだけの追加予算が必要であり、その費用を自動車の使用者にどのような形で負担させるべきなのか――この考えが、そのまま今の日本社会に適用できるわけではないだろうが、自動車を所有し、維持する費用を「高い」とみるか、あるいは「安い」とみるかについて、少し異なる視点からとらえるだけで、これほどにも大きな違いとなるというのは、なかなかに興味深いものがある。