教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

読み書きそろばん、統計学――『統計学が最強の学問である』

 以前勤めていた会社で社内SEを担当していた経験があるが、そもそも企業が業務のシステム化というものに目を向けたもっとも大きな要因は、いかに煩雑で手間ひまのかかる業務を簡略化・効率化することができるか、という点にあった。そのもっとも典型的な例が、伝票処理だろう。さまざまな伝票の金額を集計するために、コンピュータが普及していなかった時代は、多くの人手と時間をかけて行なう必要があった。しかも、人のやることだから、当然計算違いや記入ミスなども出てくる。人件費も馬鹿にならない。


 そうした各種費用と、コンピュータ導入費とその開発費、維持費などを天秤にかけたさい、後者の費用のほうが総合してコスト安となると明らかになったときから、業務のシステム化という流れが生まれていった。そしてその姿勢は、21世紀となった今も基本的には変わっていない。

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本でつながる新しいコミュニティーの形――『ビブリオバトル』

 読書とは、孤独な行為だという思いが私にはあった。本に対して向き合うのは、あくまで私という人間ひとりであって、たとえ、別の人が同じ本を読んでいたとしても、そこから得られるものも同じとはかぎらない。そもそも「本を読みましょう」という掛け声とともに、多人数が同じ部屋でいっせいに同じ本を読み始めたとしても、コミュニケーションをとっているのは人と本であり、そこに人と人との交流はない。どれだけ多くの人が集まっても、読書とはやはり孤独な行為なのだ。


 そうした個人的思いは基本的に今も変わってはいないのだが、谷口忠大氏の『ビブリオバトル』を最初に読んだとき、こうした形の本との関わり方もあるのだと妙に感慨深かったのをよく覚えている。

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考え抜いたことだけを書け――『読書について』

 このブログは教養書を読むことで、さまざまな方面の知識を身につけたい、という個人的欲求があってはじめたものだが、そうやって興味の赴くままに教養書を読んでいくと、不意に以前読んだ教養書の知識や、そこで感じたある要素がつながっているのではないか、という感覚が生まれてくることがある。いっけんするとまったく違う分野の教養書であるにもかかわらず、じつはそれらが見ているもの、捉えようとしているものが、同じもののように思えてくるのだ。


 とくに最近の教養書を読むと、今の社会が抱えている様々な問題が、なんらかの形でそこに絡んでいることが多くて驚かされる。資本主義の限界、極端な自由経済の奨励と自己責任論、広がる格差と貧困問題、少子高齢化などなど、今を生きる私たちにとっても、けっして無視できない問題を、まるでいろいろな分野の人たちが憂慮し、その解決のために知恵を絞っているような気がしてならなくなってくる。

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人間による神の居場所の探求――『物理学と神』

 科学と神、あるいは神学というものは、相容れないものであるという意識が私たちにはあるが、たとえばアメリカにおける「創造科学」の変遷などを考えると、かならずしもそういうわけでないことが見えてくる。「創造科学」とは、おもにダーウィンの進化論を否定するために生み出された、いわゆるニセ科学に属するものであり、あくまで聖書の記されているとおりのことが起こったと主張することを基本とする。キリスト教創世神話を観察科学とみなし、それゆえに進化論だけを学校で教育するのは違法であるという訴えがじっさいに起こり、裁判沙汰にまで発展したのだ。何世紀も前の話ではない。科学の世紀と謳われた20世紀末のことであり、21世紀になってもなお、創造科学を学校教育に取り入れようという動きが向こうではあるという。

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インターネットにおける「PV主義」について

 これはより正確には「PV至上主義」と言うべきかもしれない。「PV」とは「ページビュー」のこと。つまり、インターネット上で公開しているウェブページやブログの特定のページが閲覧された回数のことを指す用語である。私はかつて、前世紀末ごろに自身のウェブサイトを立ち上げ、それなりに長く運営していたことがあったが、あれから十年以上が経った現在、ウェブサイトはいかにPVを集めるか、という点のみにあくせくしているように思える。そしてそれが、かつてあったはずのインターネットの面白さ、その魅力を損なってしまっているようにも思えるのだが、私がふとそんなふうに思った要因のひとつとして、前回のエントリーで紹介した湯浅誠氏の著書『反貧困-「すべり台社会」からの脱出-』がある。

toncyuu.hatenablog.com

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見えない貧困に目を向ける――『反貧困-「すべり台社会」からの脱出-』

 日本の景気が良くならない、いや、たしかに景気は良くなったという政府発表とは裏腹に、私たちの生活がいっこうに向上したようには思えない、むしろ悪くなっているようにさえ思えるのは、経済的にはお金が回っていないから、という理由へと帰結していく。誰もが以前のようにじゃんじゃん商品やサービスを消費して、お金が流通するようになれば景気は回復する――それはたしかにそのとおりではあるが、需要と供給のバランスによって価格が自動的に適正になっていくというミクロ経済の理論は、こと不況期においては思ったように機能しないこともわかっている。

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善き生としての正義――『これからの「正義」の話をしよう』

 ハーバード大学におけるマイケル・サンデル氏の講義については、一度だけNHKの番組で放送されていたのを視聴したことがあった。それはまったくの偶然であり、またそのときの私は差し迫った用事もあったため、全部を観ることなくその場を離れなければならなかったのだが、そのときの印象としてあるのは、彼の講義が常に学生たちに対して、意識して考えさせるような命題を提示していることと、ある意見に対する反対意見や反論について、自分自身ではなく、同じ学生に対して行なわせようとしている姿勢だった。


 ここでいう「意識して考えさせる」というのは、それまではおそらく意識することもなく、ある結論を出していたであろう考えについて、なぜそう思ったのかを問いかけるという意味をもつ。『これからの「正義」の話をしよう』という本については、以前に読んでいたこともあって、テレビでその講義を観たときは、なるほどこんなふうに進めていたのだな、と思った程度だったのだが、今回のエントリーであらためてこの本を読みなおしたときに、そうした著者の講義の姿勢が、ある明確な目的をもって行なわれていたということに気づかされた。

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