教養書のすすめ

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見えない貧困に目を向ける――『反貧困-「すべり台社会」からの脱出-』

 日本の景気が良くならない、いや、たしかに景気は良くなったという政府発表とは裏腹に、私たちの生活がいっこうに向上したようには思えない、むしろ悪くなっているようにさえ思えるのは、経済的にはお金が回っていないから、という理由へと帰結していく。誰もが以前のようにじゃんじゃん商品やサービスを消費して、お金が流通するようになれば景気は回復する――それはたしかにそのとおりではあるが、需要と供給のバランスによって価格が自動的に適正になっていくというミクロ経済の理論は、こと不況期においては思ったように機能しないこともわかっている。


 なぜ人びとがお金を使わないのか、という理由について、経済学者がまず考えるのは、魅力的な商品やサービスがないから、というものだ。だが私は、けっして多数派ではないがもうひとつの理由のほうが正当性があるように思える。それは、人びとが「お金」そのものに価値を見いだしているから、というものである。本来はただの約束事であり、モノやサービスと交換しなければ何の価値もないはずの貨幣というものに、必要以上の価値を置き、できるだけ手元に置いておこうとするから、市場にお金が回らず、景気は回復しない。では、人びとはなぜそんなにお金を貯めこもうとするのか、という理由を考えたとき、湯浅誠氏の『反貧困』という本に行き着くことになった。


 この本のサブタイトルは、「「すべり台社会」からの脱出」となっている。「すべり台社会」とは、憲法で保障されている必要最低限の生活を維持するための、さまざまなセーフティーネットが機能せず、うっかり足を滑らせたら最後、どこのセーフティーネットにも引っかからずに最後まで滑り落ちてしまうような社会のことを指している。そしてそれは、まさに今の日本の社会のことだと著者は指摘する。


 一九九五年からホームレス支援活動にかかわり、ネットカフェで生活する「ネットカフェ難民」をはじめとする、いわゆる「ワーキング・プア」の問題に、まさにその現場に足を踏みこんで取り組んでいる著者の言葉は、それゆえに非常に重いものを読者に突きつけてくる。そしてこの本に書かれている「貧困」の姿が、けっして自分たちとは関係のない世界のものではない、という切迫感がある。「貧困」とは、たんに経済的な「貧乏」のことだけを指すのではないという。それは著者の言葉によれば、人びとの「溜め」がなくなっている状態のことを指している。


 たとえば、勤めている会社をリストラされたり、病気や怪我で働けなくなったりといった、人生におけるイレギュラーな出来事に対して、ある程度の生活を維持することができるだけの蓄え一般のことを「溜め」と称している。それはお金はもちろんのことだが、それ以外に重要な要素として、家族や友人、あるいは何らかの団体の支援がのぞめるのかという点も挙げている。日本をはじめとする先進国での貧困の問題の根底には、この「溜め」の貧弱さがあるのだ。そして本来であればその「溜め」のひとつとなるはずの国のセーフティーネットが、穴だらけの機能不全を起こしていることを、私たちは薄々感づいている。


 人びとがお金を必要以上に貯めこみ、市場にお金が回らない理由――それは、人びとが万が一、「すべり台」から足を滑らせたときの保険として「お金」そのものを「溜め」ようとしているからに他ならない。そして、人びとにそのように思わせてしまったのは、日本の貧困問題に長年目を背け続けてきた政府の責任であり、社会全体の責任でもある。なぜなら、セーフティーネットの機能不全は、そのまま日本社会の「溜め」の脆弱さを意味するからである。


 おそらく、この本を手にしなければ、私はこうした「貧困」の問題に今もなお無関心であったに違いない、と思うと、その深刻さに戦慄せずにはいられない。この戦慄は、それだけこの問題が表に浮かんでこない状態になっている、ということでもある。だからこそ、今回のエントリーのタイトルに「見えない貧困」とつけた。この「見えない貧困」問題に、ぜひとも目を向けてほしい。