教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

考え抜いたことだけを書け――『読書について』

 このブログは教養書を読むことで、さまざまな方面の知識を身につけたい、という個人的欲求があってはじめたものだが、そうやって興味の赴くままに教養書を読んでいくと、不意に以前読んだ教養書の知識や、そこで感じたある要素がつながっているのではないか、という感覚が生まれてくることがある。いっけんするとまったく違う分野の教養書であるにもかかわらず、じつはそれらが見ているもの、捉えようとしているものが、同じもののように思えてくるのだ。


 とくに最近の教養書を読むと、今の社会が抱えている様々な問題が、なんらかの形でそこに絡んでいることが多くて驚かされる。資本主義の限界、極端な自由経済の奨励と自己責任論、広がる格差と貧困問題、少子高齢化などなど、今を生きる私たちにとっても、けっして無視できない問題を、まるでいろいろな分野の人たちが憂慮し、その解決のために知恵を絞っているような気がしてならなくなってくる。


 ショウペンハウエルの『読書について』をあらためて読みなおそうと思ったのは、これまでの読書において触れてきた教養を、ただの知識として収集するだけでなく、自身の人生をより良いものとするための糧としたいという、このブログで一番最初にエントリーした意気込みを思い出したからに他ならない。

 

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 もっとも、じっさいに岩波文庫版のこの本を再読して気づいたのは、タイトルの「読書について」よりも、むしろ「他二篇」のほう、つまり「思索」と「著作と文体」のほうが、より深い印象を覚えるようになっていたことである。というのも、その二篇に書かれている事柄が、あまりにも現代社会における問題点と類似しているように思えたからだ。


 「読書について」に書かれているのは、大雑把に要約するなら、「本を読むことは他人にものを考えてもらうことにすぎないから、あまり乱読、多読ばかりしていると、自分でものを考えられない馬鹿になるぞ」ということである。そして、それゆえに著者は「思索」という行為を重要視しているのだが、著者の時代のドイツにおいても、どうもそうした「思索」を軽んじるような雰囲気があったようだ。とくに「著作と文体」を読むと、当時の世のなかの学者や記者、執筆者などの愚鈍さ、軽薄さにどうにも我慢がならない、といった雰囲気が読み取れて、なかなか興味深かったりする。


 たとえば、当時のドイツのメディアにおいては、匿名の記事が氾濫していたらしく、著者はこの匿名の記事は全廃すべきだと訴えているが、この流れ、インターネットにおける匿名投稿を著名人たちが批判する流れと驚くほどよく似ているのだ。また、出版社が毒にも薬にもならないような新刊を次々と発行し、読者も喜々としてそれらを購入するという風潮にも文句をつけているが、この批判、そっくりそのまま今の日本の出版業界のことを言っているかのようでさえある。


 まとめてみると、誰も彼もが金儲けのために筆を走らせ、本を出版しているが、そんなことじゃ世のなかが駄目になってしまう、ともの申しているのだ。そしてそれはそのまま、教養書をダシにブログなどを書いている私自身への警告でもある。あらためて、教養書を読むことの意義を考えさせられる本だった。