教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

信念と勇気をもって愛せよ――『愛するということ』

 愛とは何なのか、という疑問がふと頭をよぎることがある。もともと「愛」という言葉は、明治時代に西欧から輸入された概念であり、それゆえに日本人には理解しがたいものだという意識は前からあったが、おそらく私も含めた大半の日本人にとって、「愛」=「恋愛」であり、特定の誰かを好きになるとか、惚れるとかいった感情のことだと捉えている。そして、こうした誰かを愛するという感情が、まるでこのうえなく大切なことであるかのような世の風潮に違和感をおぼえていた、というのも、愛について知りたいという欲求につながっていたと思う。


 エーリッヒ・フロム氏が著した『愛するということ』は、愛そのものについて書かれたものではない。「愛について」ではなく、「愛するということ」――つまり著者が、愛というものを自発的な行動として捉えているという点を、まずは強調しなければならない。愛というのは、ある日突然空から降ってくるわけでも、また誰かから与えられるたぐいのものでもなく、まずは自分から他人に与えるものだという認識が、この本の基本にある。そして、だからこそ著者は「愛する」という自発的行為が「技術」に他ならないと説く。


 私を含めた日本人にとって、「愛」という言葉はそのまま「恋愛」と結びつくようなイメージをもっていると上述したが、この本を読んでいくと、彼らの捉える「愛」とは、多分にキリスト教的な愛と深く結びついていることが見えてくる。宗教は、人が孤独を克服するために生み出した概念、という側面がある。人は基本的には孤独な生き物だ。どんなにある人のことを大切に思っていても、その人が何を考え、心のなかでどう思っているのかを、私たちはけっして覗き見ることはできない。だが、それでも人は自身の内にあるどうしようもない孤独を、何とかしようとせずにはいられない。


 誰かを愛するということは、基本的には理解できない他者とわかりあうということだ。そしてそのために必要なのは、まずは自分を信じ、愛するということができなければならない。そんなふうに考えたとき、私のなかで「愛」というものに疑問を抱いてしまうのは、そこに損得勘定を考慮してしまうからだと気づかされた。愛するという行為は、けっして見返りを求めることではない。あくまで逃れられない孤独を克服するという、人類永遠の命題ゆえのものなのだ。


 そういう意味では、「愛する」という行為はまさに信念と勇気を必要とする。それは、資本主義の原理にその思考を縛られている人であればあるほど、困難なこととなる。今私たちに必要なのは、こうした「愛」の形ではないだろうか。