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教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

お金に対する嫌悪感について

教養書雑記

 前回の教養書エントリーでは、マーク・ボイル氏の『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を取りあげたが、そのなかで私は、お金に対する嫌悪感について少し触れた。著者がお金を使わずに生きることを決意した背景には、無限に資本を集め、増殖していくことを目的とする資本主義への疑念と嫌悪がある。そしてその嫌悪は、私たちの生きる地球を「限りある資源」と捉えることから生じている。有限のものを無限と捉えることは、それ自体に無理がある。そして、もしその理屈を押し通そうとするなら、必ずどこかに無理が生じることになる。その「無理」の形が、著者の言葉を借りるなら「西洋のぼくらが安価なエネルギーの恩恵を受けるために中東の家庭や土地がめちゃめちゃにされる姿を目にすること」だ。


 この本を読んだ当時は、著者の主張はあまりに規模が大きくて(なにせ地球規模の話である)、じつはあまりピンと来なかったというのが正直なところだった。地球の裏側で起こっている環境破壊や紛争に対し、どこまでリアルに迫ることができるのか、残念ながら今の私にはなかなか想像力が及ばなかったりするのだが、著者が環境破壊という形で感じ取った「お金に対する嫌悪感」と似たような感覚を、最近になってふと感じることがあった。


 たとえば、インターネットの光回線の契約をとるため、わざわざ私のいるであろう夜に訪問してくる販売員。彼らの話を聞いていると、なんとかして契約をとりたい、という必死さがしばしばにじみ出ていたりして、聞き手のこちらはいい加減うんざりしてくるのだが、逆にその販売員は、どうしてここまで必死になって食い下がってくるのだろう、と考えたときに、出てくる安易な結論は「お金のため」だ。


 もちろん真意はわからない。もしかしたらその販売員は、自分の仕事が世のなかを良くしているという信念とともに各家庭を訪問しているのかもしれない。だが、もしそれが「お金を稼ぐため」ということであるなら、そこまでのことを人に強いるお金というものに、どうしようもない嫌悪を感じずにはいられない。


 安易な気持ちでネットでの資料請求をした結果、メールや電話で何度もアクセスしようとしてくる担当者についても、同じようなことを感じる。なぜそこまでひたむきなのか。そこまでお客が来ないのか。それとも、ひとり契約に結びつけることで報酬が出るという歩合制なのか。そんなふうに考えると、お金というものは便利ではあるけど、そのいっぽうで吐き気がするほどの嫌悪感を示すマーク・ボイルの気持ちも、わからなくはないのだ。


 私たちは、はたしてお金というものをどこまで有効活用できているのだろうか。お金でお金を稼ぐようなマネーゲームがまかり通るような現代において、私たちはいつのまにかお金というものに踊らされているのではないだろうか。それは私にとって、まぎれもないリアルな嫌悪感である。


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