教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

失われた「大きな物語」を求めて――『定本 物語消費論』

 最近、私のなかで「物語を消費する」という表現がどうにも気になっているのは、他ならぬ私自身が物語を消費しているという自覚があるからに他ならない。小説や漫画、アニメ、ゲーム、最近では某動画サイトに投稿される二次創作物といったコンテンツは、かつて私が好きだったものであり、また今もなお好きでありつづけるものでもあるのだが、なぜそうしたものを飽きもせず「消費」しつづけているのかと考えたとき、そこには「物語」があるから、というのが一応の答えになる。

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「デキル人」から「デキタ人」へ――『マジメすぎて、苦しい人たち』

 たとえば、フロイトによって無意識の領域が発見され、それに「無意識」という名称がつけられるまで、人々はこの世界に「無意識」なるものが存在することを知らなかった。それまで未分類のものであったものが、名前をつけられて人間の理性の領域に分類されることで、はじめて私たちは、その存在を認識できるようになる、というのは、実在論的に不思議なものがあるのだが、こと精神医学の世界においては最近になって、身体的な病気と同じように、精神の不調による病気に対しても、さまざまな名称がつけられるようになった。

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贈り物としての情報――『街場のメディア論』

 内田樹氏の著作については、一時期ずいぶんと入れ込んでいたことがあった。さすがに今はそれほどではなくなっているのだが、当時「まぎれもない自分」というものについて悩んでいたさいに、「そんなものはない」という回答に行き着くことになったきっかけとなったのが、内田樹氏の構造主義的な教えにあったことはたしかで、それは私にとってはだいぶ大きな救いにもなったのだ。


 神戸女学院大学の講義を書籍化した「街場」シリーズのなかで、とくに『街場のメディア論』を取り上げたのは、昨今のマスメディア、たとえばテレビや新聞などのメディアを扱う業界の斜陽ぶりが、一読書家として気になっていたからというのがあるが、この本の最初の章で取り扱っているのは、就職活動における「適性」にかんすることだったりする。

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知的対話の面白さ――『ぼくらの頭脳の鍛え方』

 現代の知識人を代表するであろう立花隆氏と佐藤優氏が、「必読の教養書400冊」というサブタイトルをつけて著した『ぼくらの頭脳の鍛え方』という本を、「教養書のお勧め本」というくくりで捉えた場合、ほぼ間違いなくこのブログの存在意義は失われてしまう。なにせ、その読書量や知識の量で言えば、私の書くブログの情報など、お二方の足元にも及ばないお粗末なもので、「どんな教養書を読むべきか」という点で言えば、この本一冊あれば事足りてしまうことになる。

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誰もやらないことをやるということ――『職業は武装解除』

 およそ教養書にかぎった話ではないが、本を読んでいて面白いと思うのは、普通であれば出会うことはおろか、もしかしたらその存在すら知りえなかったかもしれない人々と、間接的にではあるが知り合うことができるということである。そして、何らかの形でその人生が本という形で記録されているということは、その生き様が非常にユニークなものだから、という理由であることが大きい。

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法を理解する入り口として――『法と社会』

 碧海純一氏の『法と社会』については、ずいぶん昔に一度読んだことがあったのだが、このブログへのエントリーとしてあらためて再読してみてわかったのは、この本があくまで「法の入門書」として書かれているという点である。つまり著者は、一般教養としての法知識がこの本の先にあるという前提でもってこの本を書いており、けっきょくこの本を読んだきり何年もその先へと進まなかった私としては、おおいに反省しなければならないところである。

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「教養」はいかに「プチ化」したか――『教養主義の没落』

 以前の教養書エントリーで紹介した岡本浩一氏の『権威主義の正体』では、「権威」と「権威主義」を明確に区別しようとする意図があった。とくに後者については、本来的な権威をもっていないにもかかわらず、まるでそれがあるかのように振る舞う、いわば偽物の権威ととらえることで、それに騙されてしまう人々に注意を喚起しようとしていた。

toncyuu.hatenablog.com


 私が竹内洋氏の著書『教養主義の没落』を手にとったのは、この「主義」という言葉がひっかかってのことだった。どうもこの「主義」という表現は、そこに付随する単語を不穏なものへと変えてしまうものがあるように私には思えるのだが、この本にかんして言うなら、「教養主義」に対する善悪の判断には言及してはいない。

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