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教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

「国民」という名の幻想――『レイヤー化する世界』

教養書紹介

 十九世紀から二十世紀にかけて確立してきた資本主義という体制が成熟に達し、すでにあちこちで消化不良を引き起こしている状態であるというのは、これまで読んできた本でも指摘されていることである。資本主義の本質は、世界をウチとソトに分けたうえで、富を無限にソトからウチへと吸い上げていくことであるが、その境界線が曖昧になってきているがゆえに、富を内側に溜め込むことそのものが困難になっている、というのが主だった論調だ。インターネットの普及や企業のグローバル化戦略が、さらにその傾向に拍車をかけることになったが、これは見方を変えるなら、地球規模で富が均質化してきている、ということでもある。

 たとえば、石油などの化石燃料や森林などの資源を地球全体の富と考えるなら、その富はけっして無限ではない。そして、他国に先んじて資本主義を確立した先進国が富を蓄積し、豊かな生活を送れるようになったのは、自分たちの生きる世界をウチとして、ソトから富を奪っていたからに他ならない。言い換えれば、資本主義は地球の富をごく限られた「ウチ」側にばかり偏在させることを許容していた、ということになる。

 佐々木俊尚氏の『レイヤー化する世界』の一番の功績は、民主主義と資本主義との関連性について言及した、ということに尽きる。本書では「国民国家」という表現を使っているが、中世における帝国時代――ギリシャやローマが世界の中心だった時代――の体制に触れつつ、そうした帝国の権威が崩壊したあとに、紆余曲折を経て、「ひとつの民族がひとつの国」という概念に人々が心の拠りどころを求めるようになっていったという過程を描き出している。そして、最初こそ武力でもって他民族を征服しつつも、征服後はその民族のあり方を許容し、ウチとソトとの境界のない、他民族国家とそれらを結ぶ交易ネットワークを築いていた帝国の時代からすれば、国民国家というあり方そのものが異端でしかなかった、という見方は、まさにその「異端」の世界の中で生きている私にとって、斬新な視点でもあった。

 本書では、民主主義は国民国家という体制が生み出したものだという捉え方をしている。皇帝や国王や宗教といったものが中心ではなく、国民ひとりひとりが主体であるという考え方は、個々人に対して自由や平等といった概念を生み出していったが、その自由や平等は、境界線のウチにあり、そこに属する人、つまりは「国民」であることが前提条件となっている。そしてここでいう「民主主義」とは、誰もが豊かな生活を送ることができる権利を指している。「一億総中流化」という言葉が示していたとおり、かつての日本もまた、そうした「民主主義」を謳歌することに成功した国のひとつだ。

 だが、「第三の産業革命」と呼ばれるコンピューターとインターネットが普及した二一世紀になって、国民国家を形成していた国の境界線が曖昧になりつつある。国の境界が曖昧になれば、ウチとソトの構造によって成り立ってきた資本主義も曖昧になり、ソトからウチへの富の流れも曖昧になる。むしろ、これまでウチにばかり蓄積されていった富が、ソトへと逆流する流れが生まれていると本書では指摘する。これは、地球規模の視点から見れば、非常に大きな意味で世界の富が均一化――つまり平等化しているということであるが、国民国家の概念しか知らない人たちからすれば、富が減って生活が苦しくなっている、ということになる。そして、誰もが豊かな生活を送ることができるという「民主主義」の利点を享受できない人たちにとって、「民主主義」を後生大事に守り続けることに何の意味もないし、そうなれば、あるひとつの国の国民でありつづけることにも、メリットを見出せなくなる。

 じっさいのところ本書には、民主主義と国民国家の概念をなかば強引に結びつける部分があったりして、細かい部分で突っ込みを入れたくなるような内容ではあるが、それでも、今世界でどんなことが起こりつつあるのかをおおまかに整理する、という意味では役に立ったし、そうした考え方を当てはめると、世の中の最近の動きや傾向について、妙に納得できるところも多かった。世界のあり方が変われば、当然人の考え方も変わってくる。これまでひとつの国の国民であること、そして民主主義というイデオロギーに何の疑問ももつことなく育ってきた私と、インターネットがあたり前の道具として提供され、国という境界線が強固でなくなってきている世界で生まれ育った、より若い人たちとでは、その心のあり方も大きく変わってくるに違いない。本書は、そんな若い人たちのあらたな心の拠りどころを見つけ出す、ひとつのヒントを指し示している。