教養書のすすめ

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「生物」であることをどう定義するか――『生物と無生物のあいだ』

 生物とは何か、という問いは、非常にクリティカルで根源的な命題だ。たとえば、私たち人間は「生物」、つまり生きていると言うことができるとしよう。ではもっと小さなもの、たとえば細菌などはどうだろうか。非常に小さな単細胞生物で、ときには私たちに病気をもたらす病原体にもなる細菌は、はたして生きていると言えるのかどうか。そしてその細菌よりももっと小さく、普通の顕微鏡ではその姿をとらえることもできないウイルスはどうだろう。それらははたして、「生きている」と言っていいものなのだろうか。

 こうした生物の定義に対する方向性、つまり、生物のサイズをどんどん小さくしていき、その機能をどんどん限定していくことで、生物を生物たらしめるぎりぎりのラインを探っていこうという方向性は、福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』という本においても共通している。そしてその方向性を支えているのは、二十世紀の生命科学が到達した、生物の定義のひとつだ。

 

 

 生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである。(『生物と無生物のあいだ』より)

 

 

 自己複製を行うことをもって「生物」だと定義する根拠としてあるのは、DNAの二重らせん構造である。細胞が分裂するさいには、核のなかにあるDNAの二重らせんがほどけ、それぞれがまるでフィルムのネガとポジのように複製を行ない、結果として二組のDNAが誕生する。私はこのことを高校の生物学の授業で習った記憶があるが、この歴史的発見と言ってもいい、DNA構造のはらむ自己複製の能力をもって「生物」の定義とすることに、著者は疑義を発している。というよりも、それだけでは不十分であると指摘している。それが何なのかを書くことが、この本のテーマだと言ってもいい。

 DNAは遺伝情報を担う物質であるが、それらの世界は非常にミクロなものである。そしてこのミクロな視点は、突きつめていくと、まるで何かの機械のように、特定の機能の集合体として生物というものを捉えてしまいがちになる。たとえば、ウイルスの形態はきわめて幾何学的であり、およそ個性というものが見当たらない。それは生物というよりは、何かの機能を担った物質のようでさえあるのだが、そんなウイルスの存在が、まさにそのタイトルとなっている「生物と無生物のあいだ」という境界線を喚起することになっている。なぜなら、人間をふくむ生物もまた、そうしたきわめて物質的な機能を無数に組み合わせたものであるからだ。

 だが同時に、私たちは自分という存在が機械とは「どこか違う」ということを直感してもいる。分子レベルまで生物を落とし込んでみれば、その構成物はまるで機械のような機能の集合体であるかもしれないが、だからといって、生物が機械と同じだと証明することにはならない。放っておけば、エントロピー増大の法則によって崩壊するはずなのに、それに逆らうようにして自己というものを保ち続ける生命の不思議――きわめてクリティカルな「生物とは何か」という命題に、まるでドキュメンタリー映画を観るかのごとく迫っていく面白さが、この本にはたしかにある。