教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

本でつながる新しいコミュニティーの形――『ビブリオバトル』

 読書とは、孤独な行為だという思いが私にはあった。本に対して向き合うのは、あくまで私という人間ひとりであって、たとえ、別の人が同じ本を読んでいたとしても、そこから得られるものも同じとはかぎらない。そもそも「本を読みましょう」という掛け声とともに、多人数が同じ部屋でいっせいに同じ本を読み始めたとしても、コミュニケーションをとっているのは人と本であり、そこに人と人との交流はない。どれだけ多くの人が集まっても、読書とはやはり孤独な行為なのだ。


 そうした個人的思いは基本的に今も変わってはいないのだが、谷口忠大氏の『ビブリオバトル』を最初に読んだとき、こうした形の本との関わり方もあるのだと妙に感慨深かったのをよく覚えている。


 五分(これがまた絶妙な時間配分であることは、じっさいにこの本を読むとよくわかる)という制限時間を設け、発表者がぜひともお勧めしたい本をプレゼンしたのち、質疑応答を経て、最後に全員で投票を行なって「チャンプ本」を決定する、というのが「ビブリオバトル」の基本的な流れだ。つまりこのプレゼン合戦は、それまでであれば目にすることもなかったであろう意想外な本と出会う可能性を秘めた、本との出会いの場ということになる。だがそれ以上に著者が大切にしているのは、とにかくどんな機会でもかまわないから、誰かと「ビブリオバトル」をやってみる、という姿勢である。


 自分が発表者のひとりとなって、お勧めの本をプレゼンする――そこには「本」対「人」という、読書本来のスタイルとはまったく異なったつながりが存在する。ある人がある本を紹介することで、その本と人がひとくくりとなって相手に伝わるのだ。言い換えれば、発表者はあくまで自分のお勧めの本を紹介しているというだけなのだが、相手からすれば、人から本を知ることができると同時に、その本から紹介者たる人のことをも知ることができるのである。


 もちろんこのビブリオバルトを積極的にやるのは、本が好きであるとか、読書が趣味だとかいった人たちが多くなるため、基本的には趣味を共通項にするコミュニティーを形成しやすいところがある。だが、仮に読書にあまり興味のない人であっても――いや、むしろそうであるからこそ、そんな人が選ぶ本が、その人の本質を代表するようなものである可能性が高い。それまで赤の他人に近かった人が、たまたま自分も共感した本を紹介していたりすると、急に親近感が湧いてくることがよくあるが、そうした「人」対「人」のつながりを媒介する役目を、本がはたしてくれるのである。


 戦後の日本は基本的に、共同体という比較的大きな集団を喪失し、核家族、さらには個人という単位へと分散していくような傾向にあった。それがはたして、消費のさらなる拡大を望んで仕掛けられたことなのかどうかは置いておくとして、現代を生きる私たちは、そうした個人であることの自由を喜びつつも、同時に自分が帰属すべき場所がないことへの不安も抱えている状況にある。少し格好良くまとめると、「大きな物語」を失った人たちが、その代わりになるような「小さな物語」を求めつつある、ということだ。その代替品としての「小さな物語」が「国」になれば、いわゆるネット右翼の流れになるし、「共同体」への回帰になればコミュニタリアンになる。


 だが、そんな大袈裟なものではない、さまざまなつながりでより浅く、あるいはより深くつながっていくような、新しい形の「小さな物語」もまた、今はあちこちで生まれてきている。「ビブリオバトル」もまた、間違いなくそのうちのひとつだと思っている。