教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

善き生としての正義――『これからの「正義」の話をしよう』

 ハーバード大学におけるマイケル・サンデル氏の講義については、一度だけNHKの番組で放送されていたのを視聴したことがあった。それはまったくの偶然であり、またそのときの私は差し迫った用事もあったため、全部を観ることなくその場を離れなければならなかったのだが、そのときの印象としてあるのは、彼の講義が常に学生たちに対して、意識して考えさせるような命題を提示していることと、ある意見に対する反対意見や反論について、自分自身ではなく、同じ学生に対して行なわせようとしている姿勢だった。


 ここでいう「意識して考えさせる」というのは、それまではおそらく意識することもなく、ある結論を出していたであろう考えについて、なぜそう思ったのかを問いかけるという意味をもつ。『これからの「正義」の話をしよう』という本については、以前に読んでいたこともあって、テレビでその講義を観たときは、なるほどこんなふうに進めていたのだな、と思った程度だったのだが、今回のエントリーであらためてこの本を読みなおしたときに、そうした著者の講義の姿勢が、ある明確な目的をもって行なわれていたということに気づかされた。


 それは、個人の考えや価値観には、さまざまなものがあるということであり、またその背景となっているものについても、個人によって多様であるということである。あたり前と言えば、あたり前の話ではあるのだが、たとえば私のように、孤独な環境でひたすら教養書を読む、といったことをしている者にとっては、しばしば頭から抜けてしまいがちなことだったりする。五人を助けるために一人を犠牲にするのは是か非か、自分の腎臓を売ることは容認されるべきか、徴兵制と傭兵制はどちらがいいか、代理出産は許されるべきか――いずれの命題についても、あるひとつの回答を選択した場合に、かならずその発展バージョンの問いを提示する、というのがサンデル氏の講義のパターンである。


 たとえば、「五人を助けるために一人を犠牲にするのは是か非か」という命題は、いわゆる「トロッコ問題」に属する倫理学の思考実験であるが、これは少しその設定を変えるだけで、たちまち意見が変わってしまうたぐいのものだ。著者のこうした命題については、かならずその根底に「正義をどう捉えるか」という視点があるのだが、その正義というものもまた、人によってその基準が異なってくる。著者の講義は、その事実を明らかにするためのものでもあるのだ。


 これは言い換えるなら、この世に万人が納得するような、公正明大な「正義」はありえない、ということである。少なくとも、個人が成すべき義務や責務という形で、正義や道徳を規定することはできない。そこにはどうしたって、その人が属する国家、社会、コミュニティといったものの意思がかかわってくる。人はひとりではけっして生きてはいけないものだ。だが人は、ときにそんなあたり前のことを忘れてしまう。


 そして、ここまで考えたときに、著者がアメリカにおける「コミュニタリアニズムの代表的論者」である、という説明が腑に落ちたような気がした。アメリカは基本的に自由の風潮が強い国だ。コミュニタリアニズムは、「共同体主義」とも訳されるように、極端なリベラリズムを批判し、多少の不自由を受け入れてもお互いに助け合うような生き方をすべきだとする主義である。この本の再読で、そうした意見がどうして出てくるようになったのかが見えてきて、私としては非常に有意義なものとなった。


 最大多数の最大幸福を目指す功利主義でも、極端な自由主義でもない、第三の「正義」を模索してきたこの本は、たしかにこれからの「正義」の探求であり、それはこれからも続けられるべき命題である。