教養書のすすめ

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タコツボ化した日本の近代――『日本の思想』

 教養書を読んでいると、しばしば「タコツボ化」という表現と出くわすことがある。これは丸山真男氏が提唱した、近代以降の日本の社会や文化を象徴する性質を表わしたものであるが、その著書である『日本の思想』を読むと、どのような思考の経緯をたどってそうした表現が生み出されることになったのかが見えてくる。


 この本における「タコツボ化」とは、ある特定の組織や分野が、その内側だけに専門的に特化していき、それ以外の組織や分野とのつながりが乏しくなっていくという、極端な個別化の傾向のことを指す。著者はこうした型とは別に「ササラ型」というものも提唱しており、これは枝葉の部分ではたしかに専門化しているものの、その根元にはひとつの共通した土台がある状態を示している。


 日本は明治以降、西欧の文化や技術を積極的に取り入れ、近代化を急速に進めてきた国である。それは西欧から迫ってきていた帝国主義による植民地化という脅威から、日本をいかに守るべきかという困難な命題に対するひとつの答えにもなっていたのだが、本来であればそうした文化や技術の土台となる思想や哲学について、きちんと理解し、あるいは日本の思想にうまく適応していけるよう、充分に考慮すべきであったのだが、急速な近代化という政策は、西欧の文化なり技術なりを、極度に個別化されたものとして輸入することになってしまった。それが「タコツボ化」という、日本を象徴するひとつの型を形成することになったのだとこの本は指摘している。


 言われてみれば、一時期日本で流行した携帯電話は「ガラケー」と呼ばれているが、これはガラパゴス諸島の生物のごとく、日本独自の、日本でしか通用しない特異なモノとして揶揄する意味が込められている。本来であればキリスト教的な土台があって発展してきた西欧の学問や技術を、そうした土壌のないままに取り入れた日本という国が、そこで生まれ育った日本人たちのものの考え方に、どれほどの影響を及ぼすことになったのか、そして現代においてもなお、その影響から逃れられずにいるかという点については、「ガラケー」という言葉からも容易に想像することができる。


 そして私たち日本人は、近代以前は士農工商といった身分制度の文化に長く依存して生きてきた。身分というものは、その生まれによってすでに決定されているものであり、それゆえに人と接するさいには、その人がどのような身分であるかが重要視されてきた。これは別の日本独自のものではなく、西欧についても同様なのだが、西欧ではそうした封建制に対して市民の側からの変革が起こり、文字どおり血の流れる闘争と長きにわたる意識変革によって近代化や、個人の自由といった思想を勝ち取ってきた歴史がある。


 だが、日本ではそうした歴史を経ないままに、ただその成果物だけを輸入するという形で近代化が進んでしまったため、日本人は今もなお身分制度的なものの考え方から抜け出せずにいる。自由や民主主義といったものは、誰かから与えられるものではなく、市民ひとりひとりが絶え間ない努力によって維持していくものであるという意識の決定的な欠如が、今の日本のかかえるさまざまな問題を浮き彫りにしている。


 日本という国について、そして日本人について、明確な言葉で理解する一助として、ぜひとも押えておきたい教養書である。