教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

あなたの身近にある未知の世界――『裏山の奇人』

 科学の発達は、この地球上から未知の領域を確実に奪っていったと思っていた。いまや世界のどこにも、人が足を踏み入れていない場所などない。どんなに深い海の底にも、どんなに高い山の上にも、人は果敢に乗り込んでいき、手付かずの場所を探すことのほうが難しいとさえ思えるのは、インターネットの普及によってさまざまな情報に即座に触れることができるようになったことも大きいのだろう。それはなんだか、世界が小さく縮んでしまったかのような物寂しさを感じさせるものであるが、小松貴氏の『裏山の奇人』を読んだとき、そうした感覚がとんだ思い上がりであることを認めなければならなかった。


 小さいころから虫に興味を示し……というよりも、虫にしか興味を示さないまま大人になったあげく、今ではアリヅカコオロギをはじめとする好蟻性生物の研究者になったという著者の、さまざまな虫や小動物に対する愛に溢れたこの本は、著者自身の体験記として読んでも充分な面白さがある。というのも、どこでどんな虫を見つけたとか、ある虫の奇妙な行動を見かけたとかいった著者の記述は、およそ研究者としての専門的な用語で溢れたものではなく、あくまでひとり虫好きな人間として、虫と対等な立場で書かれているからだ。著者自身も最初に断っているように、この本で紹介されている虫は、しばしば「擬人化」がされている。人間の友だちよりも虫の友だちのほうが多いと自称する著者らしい、著者にしか書けない文章だ。その強烈な個性が、虫にまったく興味のなかった私をぐいぐい著者の見る世界へと引き込んでいく。


 この本に登場する虫たちは、その大半が著者の個人的フィールドと称する長野県の裏山である。著者が研究対象としている好蟻性生物は、じつはそれほど珍しい昆虫ではなく、その気になれば私たちのすぐ近くに生息している。私たちにとって、アリはまさに身近な昆虫だ。ということは、そんなアリたちに寄生し、あるいは共生することで生きている好蟻性生物もまた、身近な生き物ということになる。にもかかわらず、その生態や種類については今も謎の部分が多いという。世のなかには、まだまだ人智の及んでいない領域がゴロゴロしている――それはまるで、自分がこれまで見てきた世界がガラリと変わってしまうかのような感覚だった。


 まるで小さな虫を二次元美少女のように愛でてやまないからこそ目にすることができる「別世界」を、たしかに身近に感じることができる教養書である。