教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

「アンガーマネジメント」と「受動意識仮説」のしっくりくる組み合わせ

 図書館の検索機械で「アンガーマネージメント」と入力すると、出てくる一覧の多くが「貸出中」になっていて、怒りをどうコントロールするのかという命題に対する関心の高さをふと感じた。

 スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』でも、世界的に暴力行為は減少傾向にあり、人々は暴力を振るうことを「恥ずべき行為」として受け止めつつある、と書かれている。だが、暴力への嫌悪感と、怒りの抑制とは別の話だ。いつ、どんなタイミングで感情が乱れ、カッとなって暴力を振るいそうになったり、あるいは暴言を吐きそうになったりするのかは本人にもわからないし、その衝動は人間的というよりは動物的なものでもあるがゆえに、そもそもコントロールなどできるのだろうか、とも思ってしまう。

 ふとしたきっかけで怒りの感情に支配されてしまう――それは、私自身だって例外ではないし、だからこそ私は自分を含めた人間が嫌いなのだが、私にとってのアンガーマネジメントは、自分という感覚がただの幻でしかないという仮説を受け入れることである。これは、前野隆司が『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房)のなかで、「受動意識仮説」という名称で提唱しているものだ。

「受動意識仮説」とは、自分というものが中心にあり、自分が物事を感じたり意識したり、あるいは何かしようと考えたりしているのではなく、そんなふうに錯覚しているにすぎない、という考え方である。自分が他ならぬ自分自身だと感じているその感覚は、じつはただ脳が「エピソード記憶(※)」をするために作り出した幻、イリュージョンに過ぎず、じつは脳のニューロンの発火現象が物事を考えたり意識したり、喜怒哀楽を感じているのを、あたかも自分がそう考えたり意識したりしていると錯覚させられているのだという。

※「エピソード記憶」とは、自分がいつ何をしたのかをエピソードの連続として順番に覚えていく記憶で、「私」という主体がなければ成立しないものである。

 それはあくまで仮説でしかないのだが、本書にはそう考えざるを得ないと思わせる科学実験がいくつも紹介されており、非常に説得力のあるものだと私は感じている。私が「私」と感じているものは、言ってみれば「無意識の小びとたち」が感じていることを、ただたんに川下で受け取っているだけであり、「私」は世界の中心にいてすべてをコントロールしているわけではない。あたかも、地球が宇宙の中心に鎮座しているという天動説が科学によって誤りだと証明されたかのように、自分の存在も世界の中心にいるわけではないし、世界とつながっているわけでもない、というのが真実だとするなら、怒りを感じているのも自分ではなく、ただのニューロンの発火現象、「無意識の子びとたち」がそんなふうに思っているのだということになる。

 私の思考パターンは、基本的にネガティブなものだ。誰かを嫌いだと思ったり、不愉快だと感じたり、あるいはちょっとしたことに怒りを覚えたりすると、その負の感情が正の感情を容易に凌駕して、そのことばかりがいつまでも意識にこびりついてしまう。しかも、忘れたことにそうした感情が不意によみがえったりするし、そしてその度に、そんなふうに思ってしまう自分が嫌いになっていくという負の連鎖反応が続いていく。

 だが、本書の「受動意識仮説」によれば、そんなふうに思ってしまうのは自分ではなく、「無意識の子びとたち」ということになる。それは言い換えれば、自分を客観視することだ。自分自身を他人であるかのように捉えるのは、私にとってどうにも難しいと思っていたのだが、「受動意識仮説」がそれを比較的容易にしてくれる。怒りの感情にさいなまれても、「ああ、俺の無意識がそう感じているんだ」と思えるようになれれば、そこから「なぜ俺の無意識はそう感じるのだろう」というふうに思考を進めることもできる。そうすれば、怒りの感情に振り回されることも回避しやすくなるし、逆に「もっと俺の無意識が楽しいと思うことをやろう」と思うことで、人生をより良く過ごすこともできる。

 なにせ、自分を自分と感じている意識はただの幻なのだ。そんなふうに考えることで、はじめて私は、ネガティブであることをポジティブに捉えようと意識しつつある自分に気がついた。これは、自分が唯一無二の、かけがえのない存在だと考えているかぎりけっして到達し得なかったものだろう。自分なんてたいしたものじゃないのだ、と確信したからこそ、自分という束縛から解かれ、自分を客観視するためのヒントとなったのだ。

 著者によれば、「受動意識仮説」を提唱したときの読者の反応は、「空しくて切ない」というネガティブなものと、「心が軽くなった」というポジティブなものとに二分されたそうだ。おそらく、私のように本来的にネガティブ思考の人たちは、後者だったのではないかと思っている。逆に、自分というものを丸ごと肯定できるようなポジティブ人間にとっては、「受動意識仮説」は多かれ少なかれショッキングだったのではないか。そう考えれば、ネガティブであることも、案外悪くないものだと思えてくる。

 ふとしたきっかけて湧き上がってくる怒りの感情が、自分の無意識がそう感じさせているのだということであるなら、そこからできるだけ距離を置くようにすればいい。そして、自分が楽しいと思うこと、ワクワクするようなことをできるだけ取り入れていくようにすれば、いずれ自分の無意識も、そうした行為により強くニューロンを発火させていくようになるだろう。「無意識の子びとたち」による意思決定は、声の大きい子びとの意思ほど報われるということだから、楽しいことを感じる子びとの声を大きくしていけるような習慣を身につけていくことこそが、最大のアンガーマネジメントとなるはずである。