教養書のすすめ

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オレオレ詐欺と資本主義に対するモヤッとした気分の正体

 以前、鈴木大介の『老人食い』という本を読んだ時に、妙にモヤッとした気分になったことを覚えている。ちくま新書で出版されたこの本は、サブタイトルに「高齢者を狙う詐欺の正体」とあるように、昨今話題となっている、高齢者をターゲットにした「オレオレ詐欺」を行なうグループの手口を書いたノンフィクションであるが、その巧妙かつ組織的な詐欺の仕組みもさることながら、何よりも詐欺の加害者である青年たちが一様に、自分たちはむしろ被害者であり、本来なら自分たちに回ってくるはずの金を取り戻しているだけだ、という罪の意識のなさに、何よりもモヤッとさせられたのだ。

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 この背景には、たとえば国民年金における世代間の格差の問題がある。今の高齢者には充分な年金が支払われ、若い世代になればなるほどその額は減り、あるいは支給される年齢が引き上げられ、月々の掛け金を払えば払うほど損をするという構造は、ただでさえ収入の少ない若者たちの神経を逆なでするものだ。政治家も、票田の多い高齢者の意見だけを受け入れ、未来の担い手であるはずの若者をないがしろにする。今の日本の社会において、とかく自分たちばかりが損な目に合っている、という意識が、いつしか「勝ち組」として高齢者をひとくくりにし、そんな彼らから、有り余っている「はず」のお金を騙し取って何が悪いという意識へと転換していくというのは、感情的には非常に良く理解できる。

 だが、それは間違いなく自己欺瞞である。この本を読んだ当時はそんなふうに思えなかったが、今ならはっきりと断言できる。なぜならそれは、けっきょくのところ「弱い者たちがさらに弱い者を叩く」構造でしかないからだ。そしてこの構造は、明治以降、現代に到るまで連綿とつづく日本社会の「無責任の体系」でもある。

 日本社会の「無責任の体系」については、住専問題を受けて桜井哲夫が『自己責任とは何か』で問いかけ、また福島第一原発事故を受けて白井聡が『永続敗戦論』で問いかけているもので、何か大きな問題が起こった時に、誰も責任をとる立場とならないまま、最終的にそのツケがもっとも最下層にある弱者に回ってしまうという構造のことを指している。とくに桜井哲夫は、こうした構造が明治の近代化において、天皇という究極のタテ社会を形成したことを起源として挙げているが、第二次世界大戦の敗戦を経てもなお、こうした構造が解体されることなく、今もなおいたるところに残っているということを受けて、白井聡が「永続敗戦」という表現、つまり、今もなお真の意味で「戦後」を迎えていないという指摘へとつながっていく。

 オレオレ詐欺グループの若者たちにとって、騙される高齢者は「弱者」だ。たしかに年金の構造上、今の高齢者は若者たちよりも多くの年金をもらえているのかもしれないが、体も頭も、そして心もしっかりしているような強い老人は、むしろ詐欺のターゲットにはならない。『老人喰い』を読んでいけばわかるが、彼らは騙せそうな高齢者を注意深く探しているし、そのためのあらゆる努力を惜しまない。そして、一度騙せそうなターゲットを発見すれば、そこから搾り取れるだけ搾り取ることも平気で行なう。つまり、一度だけでなく何度も詐欺行為を、同じ高齢者に対して行なうのだ。もし、彼らが本当に高齢者を「加害者」とみなしているのなら、高齢者全般に対して効果のある方法を考えなければならない。だが、彼らはけっしてそうはしない。できるだけ安全に、かつ効率的に、金のありそうなところから限度いっぱい金をせびりとる――その合理性は、ある意味で資本主義の原則そのものである。オレオレ詐欺のグループが、あたかも会社組織であるかのごとく役割分担され、また組織としてトップに近づけば近づくほど、より多くの金と安全が手に入るという類似点があるのも、けっして無関係ではない。

 資本主義の基本は、資本の多さが優劣を決めるというものだ。金があれば偉いし、金があれば強い。人間という複雑極まりない存在を、単純な単位で序列付けできてしまうもの――それが金というものだ。そして、資本主義における金というのは、弱い立場の者から強い立場の者へと流れていく。結局のところオレオレ詐欺グループがしているのは、同じ「勝ち組」の高齢者のなかでも、あえて弱い老人を選んで金を騙し取っているだけであり、常に「弱者」をいけにえにする日本社会の「無責任の体系」の上にいる者たちがやっていることとまったく変わらないのだ。自分がされて嫌だと思っていることを、もっと弱い立場の人たちに平気で行なえてしまうこと、これがおそらく、このブログの当初に感じていた「モヤッとした気分」の正体だ。