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教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

「自然に生きる」ということ

 私たちはこの世に生まれた瞬間から、大自然から認められた「生きていていい命」である、というのは、名取芳彦の『気にしない練習』という本の言葉である。お寺の住職を勤めている、いかにもお坊さんらしい言葉だが、私たちを構成する肉や骨、内臓も含めた、身体のありとあらゆるものが、自分の努力以前のもの、言ってみれば天然自然の贈り物である、という発想は、他ならぬ自分自身の存在を、自然から与えられたものであるという、ただそれだけの理由で全肯定してかまわない、という考え方が前提にあるからこそのものだ。

 自然から生じたものには偽りがない。私たちの身近にいるどんな虫や草も、何ひとつ無駄なものがなく、無駄がないからこそ、必要のない場所からはいなくなる。だからこそ、そんな自然が全肯定してくれた人間の身体にもまた偽りがなく、存在そのものが全肯定される。これが仏教の考え方だということなのだが、もし、私たちが今、自分の存在を肯定できないでいるとしたら――たとえば、何かに満足できなかったり、不安を感じていたりするのであれば、それは私たちが自然でない生き方をしているから、ということになるのだろうか。

 万物は常に流転して、変化せずにはいられない。それが自然の本質だ。そして、以前紹介した『養老孟司の人間科学講義』によれば、人間の脳もまた例外ではない。脳とはまさに「生きたシステム」であり、外界からのあらゆる固定の「情報」を取り込んで、意味あるものとして活用する。だが、その「活用」のなかには、自分が他ならぬ自分であるという自己同一性の保持が含まれている。

 自己同一性の保持とは、自分という個、他の誰でもない自分自身であるという意識のことである。昨日の自分と今日の自分が同じだと思えなければ、私たちは今の社会を維持することができなくなる――それは当然と言えばあまりにも当然のことであるのだが、万物流転が自然なことであるなかで、ではなぜ自己同一性の保持という、自然に逆らうようなものを人間は持ち続けなければならないのか、という問題に突き当たる。

 一番思い当たるのは、「主観」の問題だ。以前、とある3Dゲームをしていて酔った記憶があるのだが、その主な原因として、そのゲームがプレイヤーの「見えない」タイプのゲームだったことが大きい。言い換えれば、ゲームのプレイヤーの見ているものが、そのままゲームの画面として表示されるタイプだったのだが、それはある意味で、私たちの脳と眼球の関係と同じである。もし、私たちに「主観」、つまり、自分が自分であるという認識がなければ、たとえば画面が右から左にスクロールしたときに、それが世界が動いたからなのか、あるいは自分が眼球を右に動かしたからなのかの区別がつかなくなる。3Dゲームの酔いの問題は、ゲームの画面が自分という「主観」とリンクしていないがゆえに生じる現象だと言える。

 私たちが世界における自身の物理的立ち位置として「主観」をもつ、というのは、生物として生き残るために必要不可欠なものなのだろうと思う。だが、それが身体とまったく違ったところに存在するというのとは、少し違うような気がする。これはある意味「心」とは何か、といった問題にもつながっていくが、少なくとも「心」の原型としてあったのは、身体感覚に基づく「主観」であったはずだ。ということは、身体が変化すれば、当然のことながら自己の在り様も変化する、ということになる。人間の細胞は毎日のように死んでは生まれてきているはずなので、私たちの自己もまた、毎日何らかの変化があるはずだというのが、自然な考えである。だが、大怪我や大病によって身体機能の一部を欠損するようなケースであればともかく、細胞レベルの細かい変化を、私たちは自己そのものが変わるものとして捉えることはない。自分は他ならぬ自分である、という認識は、「生きたシステム」である脳の、ある意味でおおざっぱな自己同一性の保持によって保たれている。

 だからこそ、小さい子どもだった頃の自分と今の自分を比較したときに、これが同じ自分なのかと思うほどの変化があったとしても、何もおかしくはない。それだけの時間が経過した、という認識が、外見も含めて変化する自己の違和感を払拭してくれる。だが、そうでない場合において、私たちは基本的に唐突な変化を嫌がり、認めたがらない傾向がある。変わらないはずの「自己」が、ある日まったく別物になったとしたら、それは私たちにとっては大きな不安材料となるからだ。そして、その恐怖の根底には、「変化=自己が保てなくなること」という認識がある。

 私たちが他ならぬ自分自身であり続けることが前提として築かれていったものが人間社会であり、文明であるとすれば、そこに構築されているものは基本として「不変」を前提としたものだと言える。自己がある日突然別のものに変化しないように、習慣や制度というものは、一度構築されてしまえば、それを維持しつづけようとする。だが、たとえば法律が常に少しずつ改正されていくように、不変のものなど存在しないのだ。自然に生きるというのは、何よりも変化を受け入れること、それが当然と思うことである。変わらないものなど、何もない――それはおそらく、他ならぬ自分自身というものであってすら、例外ではないのだ。

 確固たる自分自身、何があっても変化することのない強固な自己というものに憧れ、それを追い求めるような生き方を続け、しかしそんなものは存在しない、という結論に導かれ、ではなぜそうなのか、という思いをずっと持ちつづけてきたが、むしろそれこそが自然であるということが、ようやく腑に落ちたという感覚が、今はある。