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教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

世界と折り合いをつける脳――『養老孟司の人間科学講義』

教養書紹介

 ほんの数年前まで、私は「まぎれもない自分自身」というものがどこかにあるはずだ、と信じて疑っていなかったし、それをずっと探し求めるような生き方をしていた。今にして思えば、自分というものについて、ずっと漠然とした不安定さを感じていたのだろう。世の中のあらゆるものが変化していっても、自分のなかにあるはずの、不変にして普遍なる何か――それを確定することができれば、おそらく自分の人生をより自信をもって生きていくことができるのではないかと、そんなことを考えていたように思う。

 もちろん今では、そんなことは思っていない。「まぎれもない自分自身」などというものはない。少なくとも、自分の内側にそんなもの存在しないということを私は知っている。だが、その認識は不思議なことに、私をより不安定なものにするのではなく、むしろ安定させる役割を果たしている。それは、自分がまぎれもない、つまりは不変の自分であることに、ことさらこだわる必要はないということであり、またそれが一面の真理でもあるからだろうと勝手に思っている。むしろ、なぜ自分は「まぎれもない自分自身」などというものを信じていたのだろう、というのが、新たな疑問として浮かんでいる。なぜなら、以前の私に限らず、自分というものが不変であると思い込んでいる人は、世の中の大半を占めているように見えるからだ。そして、そうした謎に迫るためのヒントを提示してくれるのが、『養老孟司の人間科学講義』という本である。

  つまり意識の起源は、巨大化したヒトの脳にある。その脳は意識という形で「俺は俺だ」という機能を強化した。そこから派生した機能が言葉である。だからこそ昨日私が使った言葉と、今日私が使う言葉は同じなのであり、さらに私が使う言葉と、あなたが使う言葉も「同じ」なのである。(『養老孟司の人間科学講義』より)

 本書は言ってみれば、「ヒトとは何か」について論じたものだ。だが、そのアプローチは生物学的なそれ――つまり、二足歩行をするとか、言葉を使うとかいった身体的、生理的な特徴を挙げていくというものではなく、情報系の観点から捉えていこうというものである。情報系としての「ヒトとは何か」、というのが、本書の土台となっている。そして、このヒトに関係する情報として著者が挙げているのが、「遺伝子」と「言葉」である。

 情報としての「遺伝子」は固定されたものであり、変化することはない。そして「遺伝子」は、細胞という「生きたシステム」に翻訳されることによってはじめて意味をもつことになる。この「遺伝子」と「細胞」との関係を、本書ではそのまま脳に当てはめている。つまり、脳は「生きたシステム」であり、外界から取り入れたさまざまな視聴覚情報を翻訳し、意味あるものとして活用している。本書で言うところの「言葉」とは、脳が神経細胞を通じて受け取る外界からのさまざまな情報を総称する単語としてここでは使われている。

 言うまでもないことだが、万物は常に流転して、変化せずにはいられない。それはおよそこの世に存在するあらゆる物質に課せられた、宿命のようなものであり、当然ヒトの脳であっても例外ではない。にもかかわらず、私たちの脳は、自分が不変のものだと思い込もうとする。昨日の自分と今日の自分が、まるっきり同じなどということはありえない。どこかの細胞が死に、どこかの細胞があらたに生み出されるといったことがくり返され、数ヶ月で自分の体の細胞は入れ替わってしまうというのに、それでもなお、脳は自分が変わらない自分であることを定義し続けている。脳の役割は自己同一性の確立であるとさえ、著者は断言する。そしてヒトは、脳=言葉という意識的な情報世界と、細胞=遺伝子という無意識的な情報世界の二重の世界を生きている、と語る。

 昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分が常に連続しているというのは、ある意味であたり前のことであって、そうでなければ私たちは社会でまともに生活していくことができなくなる。だが、そうした社会構造を求めているのが他ならぬ脳そのものであるとするなら、私たちは脳が生み出す世界に生きている、ということになる。「まぎれもない自分自身」があるから、それに従って人間社会が形成されたのではない。脳が自己同一化を求めるからこそ、私たちは「まぎれもない自分自身」というものを前提とした社会を築いてきた――そういうことを、本書は語っている。

 ある意味で本書は、私たちの生きる世界を「脳」という器官から捉えようとするものである。まずはこの発想が驚愕すべきものだ。そして非常に面白いことに、こうした捉え方をすることによって、今まで疑問に思っていたさまざまな事柄、特に、自分という存在と世界との関係性といったことに対する疑問が、たちまち明瞭になっていくのである。なぜヒトは衣服を着るようになったのか、なぜ現代社会はヒトの死を隠すようになったのか、なぜヒトは神を信じるようになったのか――それはひとえに、変化せずにはいられない「生きたシステム」としての脳が、それでも不変の自己を維持せずにはいられない、という機能によって説明されていくのである。

 そして、本書が指し示している重要な点は、脳の「いい加減さ」である。この世界に、まったく同一のものなど存在しない。昨日の自分と今日の自分は、必ずどこかが異なっているはずである。だが脳は、そうした違いにはある程度目をつぶって、まとめて同じものだとしてしまう能力があるのだ。そう、このある意味でいい加減な判断は、まさに人間だけに与えられた能力だと言ってもいい。いい加減であるからこそ、私たちは他ならぬ人間として生きていけるのだ、と。

 まぎれもない自分自身などというものはなく、常に移り変わってとどまることがないのが世界の本質だとするなら、そんな世界に対してどうにかして折り合いをつけるために発達していったのが、人間の脳という器官である。私たちはもう少し、いい加減な脳が構築する世界というものをもっと意識してもいいのではないだろうか。