読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

見ているのは「指」か「月」か――『なぜ、あの人と話がかみ合わないのか』

 ある人が面白いと思って貸してくれた本が、自分にとってはさほど面白いと思えなかったりする場合がよくある。同じ内容の本を読んでいるはずなのに、なぜその人と自分のあいだで正反対の意見になってしまうのか、というのは、私にとってはけっこう重要なテーマのひとつとなっているのだが、その回答のヒントが、細谷功の『なぜ、あの人と話がかみ合わないのか』という本のなかにあった。

 本書はそのタイトルからも明らかなように、コミュニケーションギャップを扱った本だ。だが、他の数多くあるその手の本のなかでも、本書はその立ち位置が独特である。それは、そもそも話がかみ合わないのはあたり前だという点から出発し、それを理解した上で、そこから何ができるのかを考えていこうという姿勢である。

 私たちは悲しいまでに、自分中心のものの見方しかできません。これを強く認識していないことによって、コミュニケーションギャップが発生します。

 著者はコミュニケーションギャップの原因として、"人間は例外なく自分中心"、"「伝わっている」という幻想"、"「象の鼻としっぽ」を別々に見ている"の三点を挙げ、特に三番目の原因について、同じ象を見ているはずなのに、個人の立ち位置やフィルターによってまったく別のものに見えてしまうという例を、図解なども含めて非常に分かりやすく説明している。

 たとえば、仕事などで無闇に話の長い人がいる。しばらくは話を聞いているのだが、けっきょくのところ、その話の要点が何なのかがいっこうに見えてこなくてイライラする、という経験が私にもあるのだが、これも「自分が話したいこと」と「相手が聞きたいこと」がかみ合っていない典型例だ。それでも、「ギャップはあってあたり前」であることを認識していれば、相手の立場になって話を伝えようとしたり、あるいは相手から要点を聞きだせるような会話の工夫をしたりといった対策を取ることが可能となる。だが、それができていない人が多いからこそ、本書は書かれたのだろう。

 なぜなら大抵の人は、話がかみ合わない理由を相手や環境のせいにしてしまうからだ。自分はちゃんと伝えている――じつはそれがただの幻想でしかないことを、本書は最初に指摘している。人と人とのコミュニケーションのほとんどが、そもそもちゃんと相手に伝わらないものなのだ。そういう意味で、本書は「気づき」の本だと言うことができる。

 こうした「気づき」は、じつは読書の世界においても有効だ。このブログの最初に取り上げた、同じ本に対する感想の違いもそのひとつである。もちろん、本というのは書かれた瞬間に作者の手を離れてしまうものであり、それぞれの読み手ごとに伝わるものも少しずつ異なっていくものだ。それがまた読書というものの面白さでもあるのだが、本書を読んでふと思うのは、自分の理解のなさ、経験や知識や努力といったものが足りないがゆえに、その本の本来持っているはずの面白さや感動を、きちんと掴み取れていないのではないか、という危惧である。

 この本のなかで特に印象深いのは、達人と凡人が持つフィルターの枠の大きさゆえのギャップを書いた部分だ。達人の枠は、凡人のそれと比べてはるかに大きく、それゆえに同じ大きさの象を見ても、前者は小さく、後者は大きく見えてしまう。この「象」を「基本能力」に置き換えると、達人は自分の実力について、より大きな枠=目標を持っているがゆえに、自分はまだまだだと思い込んでさらなる研鑽を積み、凡人はその枠の小ささゆえに、自分の基礎能力が充分だと思い込み、無闇に応用やテクニックに溺れていく。だが、その人がさらに成長するかどうかは、じつはその枠の大きさによって決まる。言い換えれば、より高いレベルへの「気づき」があるかどうか、ということでもある。

 中国の諺で、「あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている」という文句がある。自分がこれまで読んできて、しかしその本当の面白さに気づかずにいた本は、いったいどれだけあるのだろうか。そして今、まさに読んでいる本について、じつはその「指」ばかり見ていて、本当に指し示しているはずの「月」を見ることができていないのではないか、という懸念が頭を離れない。