教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

それはどのレベルの話なのか――『具体と抽象』

 小説を読むことのメリットのひとつに、「登場人物との対話」というものがある。自分というちっぽけな存在の、ごく限られた一生のなかで、出会うことのできる人はごく限られている。だが小説は、ときに場所や時間さえも超えて、さまざまな人たちと対話し、交流することができる。だからこそ、小説を読むことには意味があるのだ、と私を含む読書家たちは語るのだが、ふだん小説を読まない人たちに、往々にしてそうした意見を理解することは難しい。なぜなら彼らにとって、小説とはフィクションであり、しょせんは作り話でしかない、という意識があるからだ。どれだけ素晴らしい人間の心理や機微が書かれていたところで、それはけっして現実ではないし、他ならぬ自身の経験として味わったわけでもない。そんな紛い物の作り話に、いったい何の価値があるのか、と。

 こうした断絶は、別に小説を読むことの意味だけにとどまらない。世の中を見渡してみれば、多くの場面で似たような意見の齟齬や食い違いが起こり、一方が他方のことを理解不能な異星人であるかのように思い込んでしまうことが多々ある。ときには、その食い違いが暴力や排除にさえつながってしまうことがあるのは、人間の過去の歴史が証明している。細谷功の『具体と抽象』は、そうした意見の食い違いがなぜ起こるのかを、「具体性」と「抽象性」というキーワードから探っている本である。そして著者によれば、物事を抽象化する能力こそが、人間を人間たらしめているものだと語る。

 抽象化とは一言で表現すれば、「枝葉を切り捨てて幹を見ること」といえます。文字どおり、「特徴を抽出する」ということです。要は、さまざまな特徴や属性を持つ現実の事象のなかから、他のものと共通の特長を抜き出して、ひとまとめにして扱うということです。(『具体と抽象』より)

 小説を読むさいに、どうしても誤字脱字が気になったり、時代考証的な矛盾が気になったりして、内容が頭に入ってこないという人がいるが、それは言わば「枝葉」の部分ばかりに目がいってしまっている状態だ。だが、抽象化の能力でもって小説を読む人は、そうした「枝葉」を切り捨てたうえで、より上位の階層から、たとえば「この小説は何を表現しようとしているのだろう」とか、「大胆なストーリー展開が面白かった」といったことに思考がはたらくようになる。

 このブログの最初で取り上げた、小説を読むことが「登場人物との対話」であるという意見は、小説の内容を抽象化することで、現実世界の人々との共通点を見出しているからこそ出てくるものだ。これは、具体的なものの見方にとらわれている人には想像もつかない概念だと言える。なぜなら抽象化とは、一見異なるもののなかに共通点を見出す能力のことでもあるからだ。

 本書によれば、私たちにとってもっとも身近な抽象化されたものは、言葉と数であるという。たとえば、数字の「1」は、数えられるものの対象が何であれ、ひとつしかないという状態を抽象化したものであり、それがリンゴだろうと、魚だろうと、家だろうと、すべて「1」とひとくくりにすることができるものだ。言葉も同様で、たとえば「犬」と言えば、チワワだろうと柴犬だろうとシベリアンハスキーだろうと、関係なくみんなひとくくりにすることができる。逆に言えば、「犬」という言葉の中には、世界じゅうのすべての犬種をすべて共通のものとして、ひとくくりに抽象化したものだということである。そんなふうに考えると、私たちの生きる世界が、いかに抽象化によって成り立っているのかが見えてきて非常に興味深い。

 同時に、この抽象化の能力によって、個々の勝手な解釈が混じってしまったりして、意見の齟齬や食い違いが生じてしまうという欠点があることも本書は指摘する。ネット上でよく見られる、ある意見に対する賛否両論や対立なども、この「具体性」と「抽象性」という概念の違いによって起こっていることが多いと著者は語る。たしかに、抽象レベルの方向性の話をしようとしているのに、そこに具体レベルの話を持ち出してしまえば、このブログの冒頭の話のようなことになってしまうのは必然だと言えよう。

 もし、周囲に「わけのわからないこと」を言っている人がいる場合、あるいはこの「具体性」と「抽象性」という概念を思い出すことによって、その人が見ている世界に近づくことができるかもしれない。そういう意味で、本書のサブタイトルにある「世界が変わって見える」という表現は、至極正しい。