教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

人は「言い訳」をする生き物

 人が行動するときに、常に何かを思考した結果としてそうしているわけではなく、むしろ機械的、自動的な行動に身を任せていることのほうが多い、というのは、ロバート・B・チャルディーニの『影響力の武器』に書かれていることで、人もしょせんは動物の一種であって、その反射行為からなかなか逃れられるものではない、という意味で、いろいろと考えさせられる本である。この本では、だからこそその自動的行為につけ込んで、他人を思い通りに動かそうとする人たちに気をつけるように、という注意喚起へとつながっていくのだが、私にとっては、そうした人のより原始的な部分が自分にもあるということについて、少しばかり救いになっているところがある。

 私はよく失敗する人間だ。そして悪いことに、その失敗をいつまでも引きずってしまうところがある。これは私のこれまでの人生において、なんとかしようと思いつつ、それでもなおどうすることもできないまま、今ではこの性質とうまく折り合いをつけて生きていくしかない、となかば諦めているものでもあるが、たとえば、あるまずい行動をしてしまったがゆえに失敗し、誰かに大目玉を食らうさいに、「なぜあのとき、あんな行動をとったのだろうか」と思い返しても、その理由がまったくわからないということが、じつによくあるのだ。

 そのとき、自分が何を考えていたのか、まったくわからない――この「わからない」という感覚は、ある意味で恐怖を引き起こすものだ。特に、自分の言ったことややったことに対して、責任を負わなければならないと思っているときは、なおのことである。だが、人というものが、意外に何も考えないままに行動をしているものだ、という知識は、そうしたことに悩んでいた私の心を、少しだけ軽くしてくれる。

 そのときとった行動が、特によく思索した結果というわけではなく、単純に反射的な行為としてそうしてしまったにすぎない、むしろそうした行為が人の行動の大半を占めているのだとすれば、たとえば殺人を犯してしまった人の、調書に書かれる動機の部分が、「カッとなってやってしまった」とか、「憎いと思ってやった」とかいった、ある意味でテンプレート化してしまうのもうなずける。人を殺すという重い行為について、もしきちんとした言葉で説明できる人がいたとしたら、むしろそのことのほうがよっぽど怖い。仮に、言語化できたとしても、それは行動する前からそんなふうに考えていたわけではなく、むしろ行動した後に、一種の「言い訳」として定着したものにすぎない。

 これはたとえば、誰かを好きになるということについても言える。「なぜ私はこの人を好きになったのだろう」という疑問に対する答えは、そうなっていることについて、言語化したから生じたものではない。むしろ好きになったからこそ、その理由を求めて言語化した結果として生まれたものにすぎないのだ。それはある意味で、起こしてしまった行動に対する「言い訳」として、自分を納得させるために言語化されたものなのだ。

 仕事に関しては、できたことよりもできなかったことに対する「言い訳」のほうがしっくりくるかもしれない。ある必達の目標があり、それを実現するためのスケジュールがあり、それに従って人は働くわけだが、言うまでもなく未来のことなど誰にもわからない。むろん、人は言葉をもつことによって、ある程度未来を予測する力を得たが、昨今のビジネスで誰もがそれを正確にできるのなら苦労はしない。だが、ビジネスの世界で「先のことは分からない」は通用しない。結果、「自分は自分のやるべきことをした」「それは自分の仕事の範囲外のことだ」といった「言い訳」が生まれる。特に、組織が大きくなり、役割が細分化されればされるほど、組織の仕事の範囲もまた事細かく区分けされていく。もっとも、失敗の責任など誰も取りたくないのが人情だが、その失敗の「言い訳」ばかりうまい人が偉くなるような会社だと、それはそれで将来が心配ではある。

 未知のものに対する恐怖は、人であれば誰もが持ちえる心の動きだ。だからこそ人は、わけのわからないものに対して名前をつけ、言語という秩序の中に引きずり込むことで定着させ、それで恐怖を克服するということをやってきた。そしてこの「わけのわからないもの」の最たるものが、自分自身だと私は考える。自分が何を考え、どんな行動をとるのかわからない――どんなに過激で残酷なことで、それをどれだけ嫌悪し、やるまいと思っていても、もしかしたらやってしまうかもしれない、ということについて、どうしても否定することができないのだ。それは、なんて不安定な代物なんだろう、とついつい思ってしまうのだが、その不安定さこそが人として、また生き物としての本質なのだとしたら、たとえ自身の行動を後から思い返してみて、その理由がどうしてもわからなかったとしても、それはそれでしょうがないことかもしれない、と思えるようになるのかもしれない。