教養書のすすめ

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ネットことばという新しい世界――『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』

 以前、私はネット上にウェブサイトをもっていて、そこで長く本の書評を書いてきたことがある。現在そのサイトは、自身の環境の大きな変化があって更新を停止し、そのまま今に至っているのだが、再開できるかどうかは定かではない。というのも、私のそれまでの書評スタイルは、文章がけっこう長くなってしまう傾向があったのだが、そうした傾向がネットという環境にそぐわなくなっているのではないか、という思いが以前からあり、それが書評を再開するという行為を思いとどまらせているからだ。

 藤原智美氏の『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』という本は、そんな私のネット上の言葉に対する「そぐわない」という思いを、「ネットことば」という表現で言い表そうとしたものだと言うことができる。

 

 現代人は、まるで話しことばのように書いて、瞬時に多くの人に届けられることばを手に入れました。いうまでもなくネットことばです。(『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』より)

 

  この本は、現代社会に起こっているさまざまな変化の兆しが、私たちの用いることばの変化に根ざしているものだと捉えている。かつて、グーテンベルク活版印刷によって新しい力を得ることになった「書きことば」が、以後500年続くことになった近代社会の土台となったように、今「書きことば」に代わる新たなことばが生まれ、社会に浸透しつつあるのだと。著者はそのきっかけが、インターネットにあるとしている。

 つまり、現代社会のさまざまな変化の根底には、インターネットが市民に普及することで起こった、古いことばから新しいことばへの力関係の移行がある、というものだ。それが、ネット上に氾濫していることば――著者が「ネットことば」と名づけたことばである。

 私は今まで、ネット上に溢れることばは「書きことば」であるという認識を長くもっていた。だが、それが「書きことば」ではなく、それとはまったく違う体系のことばであるという著者の主張は、非常にしっくりくるものがあった。誰もが文章をネットに載せたり、発表できるようになったことは、誰もが情報の発信源になれるという意味では大きな変化だが、同時に「書きことば」を、まるで「話しことば」であるかのように軽いものにしてしまった。

 著者が言うように、それは「たんなる日常行為であり、情報の生産や処理にすぎない」。そしてそこには、「誰が」という要素がこのうえなく希薄になってきているという思いは、インターネットの黎明期からウェブサイトを続け、ブログやSNSが隆盛になっていった時代を見てきた私が感じてきたことでもあった。今、インターネットを利用する人が必要とするのは、あくまで情報であって、それがどこの誰の発信したものなのかは、あまり重要ではなくなっている。そしてそう考えると、たとえば論文の課題でネット上の文章がコピペされるといった事柄が、あたり前のように起こるという事実も納得がいく。彼らにとって、ネット上の文章は、「誰か」が思索して生み出したものではなく、誰もが自由に、そして容易に手に入れられるもの、自分のものであると同時にみんなのもの、という意識が、どこかにあるからに他ならない。そしてそれは、インターネットの功績であると同時に功罪でもある。

 文章を書くための「書きことば」によって、人は他者と切り離され、何より自分と向き合うということを知ったと著者は語る。これは、著者自身が作家であり、常に「書きことば」と向き合ってきたからこそ出てくる、重みのあることばだ。孤独であるということは、他ならぬ自分自身という「個」を見出すという意味では、けっして悪いことではない。だが、インターネットが普及し、いつでも、誰とでも気軽につながることができる――あるいは、つながっているという幻想をいだくことができる――ような社会において、孤独であるということの意味は、ほとんど価値のないものとなりつつある。

 たとえば、「ビブリオバトル」というものがある。ある程度の人数を集めたうえで、自分の好きな本を決められた時間で紹介し、最終的に一番良かった本を選ぶというゲームのようなものだが、こうした「つながり」は、ある意味でネットの普及がなければ出てこなかったものかもしれない。本はひとりで読むもの、という意識の強い、私のような人であればなおのことだろう。そしてこうした変化は、いろいろな分野で起きつつある。

 著者の指摘する「ネットことば」が、何より情報そのものとそのスピードを重視して、個人が個人であることを重要視しないものであるとすれば、たしかにそれにふさわしい新たな表現となっていく可能性は大きい。そして実際、Twitterなどのようにより短い文章で、しかも画像や動画といったものとともに発信されるものが、より多くの人に注目されるのであれば、「ネットことば」は今後そうした方面への表現の質を高めていくことになるのだろう。だが同時に、私たちは他ならぬことばによってものを考え、自分自身を形成していく。もし「書きことば」ではなく「ネットことば」に慣れ親しんだ人たちが成長し、社会の基盤を成すようになったとき、そこにはどのような価値観が形成されていくのだろうか。