教養書のすすめ

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見えないからこそ怖ろしいもの――『「空気」の研究』

 エスニック・ジョークと呼ばれるものがある。これは、ある特定の民族や国民の性質を反映するようなエピソードを、面白おかしく誇張して語るという冗談のことだが、そのなかで日本人の特徴として挙げられているのは、「場の空気を読む」というものである。

 沈没しそうな豪華客船から乗客を海に飛び込ませるための説得の言葉として、日本人に対しては「みなさん飛び込んでいますよ」というセリフが適用されている。このジョークをはじめて知ったとき、なるほど、これは確かに日本人を言い表すものだと妙に納得したのを覚えている。みんながやっているから、自分もやる――私はどちらかというと、昔からひとりで何かをやることを好むところがあったため、どちらかといえば空気を読むよりは、空気を壊すほうだったと思っているが、こうした「場の空気を読む」ことそのものを、「研究」の対象としたのが、山本七平氏の『「空気」の研究』である。

 ここで言うところの「研究」とは、ある物事や現象をあくまで客観的にとらえ、相対化していく行為のことを指す。これはある意味で画期的なことだ。なぜなら「場の空気を読む」というのは、あまりに漠然としたものであるがゆえに、その形を明確なものにしようという努力を、これまでの日本人はしてこなかったし、おそらくする必要もなかったことであったからだ。

 以前に読んだ、土井隆義氏の『キャラ化する/される子どもたち』という本において、今の若い人たちの人間関係が、同じグループの中にあっては必要以上に「場の空気を読む」ことを要求される、という特徴を挙げていた。これがもし事実であるとするなら、今の若い人たちのグループというのは、必要以上にそのグループにおける秩序を重要視していることであり、グループを構成する個性は二の次、というよりも、メンバーたちは自身の個性の拠りどころをそのグループのなかに依存してしまっている、ということになる。

 この本においては、勝てないと判っていたはずなのに、それでもなお太平洋戦争に突入していったときに、日本全体を支配していたものとして「空気」を挙げている。そしてその「空気」は、敗戦によって解消されるどころか、別の命題に乗り換えられただけで、今もなお威力を失っていないとしている。ある命題――それが戦時中であれば「忠君愛国」ということになり、若者のグループであれば「グループ独自の雰囲気」ということになるが――について、まるでそれが絶対的な神であるかのごとく把握し、必要以上に感情移入することで、逆に支配されてしまうという構図、これこそが日本人が長らく慣れ親しんできた「空気」であると、この本では明示した。

 空気というのは、基本的に目には見えないものだ。だがもし空気がなければ、人は生きてはいけない。それはまさに、日本人にとって「あってあたり前のもの」であり、だからこそわざわざ形を与えようとは思わなかったものだ。今まで見えなかったものを、見えるようにした、そういう意味で、この本には大きな有意性がある。少なくとも、私たちを常に支配しているものがあるのだ、ということを、私たちに教えてくれる。そしておそらく、こうした「場の空気を読む」という現象は、私たちが意識しないだけで、今もいろいろな形で偏在しているのだろうと思う。

 たとえばお化け屋敷で、「ここに出てくるお化けはみんな作り物だ」と宣言すれば、それは間違いなく場の「空気」を壊す行為である。そんなことは、お化け屋敷を利用する客の誰もが知っていることだ。だが、あえて宣言しないのは、お化け屋敷というアトラクションを、少なくともそのときだけば楽しみたい、という意図があるからだ。だが、著者が明示した「空気」は、ときにそうした虚構の範囲を超えて現実に浸透し、ついには現実を飲み込んでしまうことさえあることを指摘している。そしてそれは、目にも見えず、形を与えられないものであるからこそ、怖ろしいものでもある。