教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

その思想はいまだ遠く――『現代のヒューマニズム』

 ヒューマニズムとは何なのか、ということをあらためて考えたとき、私にとっての「ヒューマニズム」とは、その言葉の響きだけは知っているものの、それが指しているもの、意味するものについて、それほど深く考えることもなく今に至っている、ということに気づかされた。

 それまで漠然と「人道的であること」「人にやさしい」といったイメージしか持ち合わせていなかったヒューマニズムには、たしかに人道主義としての側面もあるが、その背景には、人間性というものが多分に抑圧されてきたこれまでの長い歴史がある。一般的なヒューマニズムにおける抑圧の対象としては、キリスト教の精神がそれにあたる。神の存在を至上とするキリスト教の教義を教え広める教会は、基本的に信者である人間に神の存在を疑問視することを許さないものだ。

  だが、それは人間の人間としての価値を不当に貶めるものなのではないか、という考え方がある日起こった。その流れが西欧におけるルネサンス期を開花させることになるのだが、ヒューマニズムというのは要するに、何かによって抑圧された非人間的状態がまずあって、そこから人間性を回復する運動が起こるという流れによって、はじめて認識することができる思想、ということである。

 言い換えるなら、ヒューマニズムとは人間中心主義のことだ。「神」という、人間の外側にあるものに最大の価値を置くのではなく、人間の内側に視点を移したうえで、人間の価値を見出していこうという考え方のことである。

 さて、そこで務台理作氏の『現代のヒューマニズム』である。著者がそこで唱えているのは「人類ヒューマニズム」と名づけられる精神である。そして、この精神の主体となっているのは、人間中心主義としてのヒューマニズムではない。そこには純粋な人間だけでなく、自然や社会といった人間を取り巻くものもまた、人間を形成するために必要不可欠な要素であるとしたうえで、それらをすべて包括するものとしてヒューマニズムを考えなければならない、と提唱している。それがこの本における「人類ヒューマニズム」ということになる。

 この本が刊行されたのは一九六一年、学生たちによる安保闘争が盛んになり、東西冷戦による核戦争の危機が問題視されていた時代において、人間性を抑圧するものは何より戦争であるという認識が強い時代でもあった。人類の幸福を確立することが「人類ヒューマニズム」の第一と考える著者にとって、世界平和はそのための手段であり、そのためには植民地の解放や、民族の独立が絶対条件だと説いているが、ここにあるのは、人間中心主義としてのヒューマニズムではなく、むしろ人道主義としてのヒューマニズムであり、私が漠然と抱いていたものに近いものがある。

 戦争が起こるのは、国と国が利害をめぐって対立するからだ。であるなら、平和を実現するためには、国という枠を超えた、まさに「人類」というより大きな枠で人間どうしを結びつけるという思想が必要となってくる。個人を超えた思想としてのヒューマニズム、それが著者の思い描いていた新しいヒューマニズムの形であるが、それから約半世紀以上の年月が流れた現代において、著者の理想はまだまだ遠いと言わざるを得ない状況が続いている。

 近代に起こった産業革命から、富を無限に増大させることを至上とする資本主義の完成は、人間性を解放するどころか、自分たちが生み出した機械によって人間性が疎外されるという状況を生み出してしまった。そして構造主義の台頭は、人間が社会や文化による影響からは逃れがたく、人間性はすべて構造に還元されてしまうことを暴露したのだが、私たちはいまだ、そこから先へと思想を進めることができずにいる。

 それどころか、人間は以前にもまして個人として切り離され、バブル経済の崩壊以降、貧困へと滑り落ちてしまう人たちは、いっぽうでテロ的な思想へと傾倒していき、いっぽうでは自分が何のために生きているのかすらわからなくなるという「自分自身の疎外」に悩まされている。

 この本に書かれていることは、はたしてただの理想論なのだろうか。もしそれが真実であるなら、私たちはもしかしたら、いつの時代よりも人間性を抑圧された状態を生きているのではないだろうか。そして私たちにとって、それがあまりにあたり前すぎて、その異常性に気づかないままでいるのではないだろうか。