教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

「火」という光源の乏しさ――『失われた夜の歴史』

 骨董業界を舞台とした北森鴻氏のミステリー『狐罠』のなかで、とあるお椀の贋作を作成するシーンがある。その贋作師はわざわざ同じ時代の木材を手に入れ、同じ時代の道具をもちいて木を削るのだが、さらにその贋作師は、その椀の作成は秘伝ゆえに、おそらく夜に作られたものだということ、そして当時の夜は、今のような明るさではなかったことすら看破したうえで、どのようにその贋作を作るべきかを検討する――たしか、そんなシーンだったと記憶している。


 私たちがよく知っている夜というのは、その気になればいつでも「電灯」のなかに逃げ込むことができることを前提とする夜だ。とくに、本好きな私などはついつい忘れてしまいがちになるのだが、夜というのは本来、暗闇が支配する時間である。ためしに、ロウソクの明かりだけで本を読んでみようとすればわかるのだが、そのあまりに乏しい光源は、電灯の光に慣れてしまった私にとって、まともに読書することも叶わない、どうにも不便なものであり、もし電灯が発明されていなかったとしたら、私が夜にすることは、たぶん食事をして寝ることくらいだったのではないか、と真剣に思っている。


 ロジャー・イーカーチの『失われた夜の歴史』を読むと、電灯が発明され、電気が各家庭に普及して、夜が今のような明るさを維持できるようになったのは、二十世紀に入ってからのことだという事実、それがあまりに最近の出来事であるということにあらためて驚かされる。産業革命以前の人間社会では、陽光の有無で世界が「昼」と「夜」にくっきりと二分されており、昼間とは異なる価値観、生態、法体制があったことが、この本では数多くの事例を踏まえて紹介されているが、それはまさに、私たちが忘れ去ってしまった、もうひとつの世界であり、もうひとつの歴史だと言える。


 今よりも乏しい光源しかもつことができなかった人びとの生活習慣が、今の私たちとまったく同じだろうという感覚は、よくよく考えればずいぶんと乱暴なものの考え方で、そんなラディカルな部分に迫るものがこの本にはあるが、かつての夜の世界が、良くも悪くも自由と無秩序の世界――犯罪や姦通、酔った勢いによる暴力沙汰の温床であるいっぽうで、昼間抑圧された感情を解き放ち、しばしの自由を心ゆくまで楽しめる時間でもあったことがうかがえる。同時に、そうした奔放をいかにして抑圧し、人間の秩序を保つべきか、という人間の理性との絶え間ない戦いの歴史も、そこから見て取れる。


 とくに興味深かったのは、そうした夜の世界における睡眠が、今のような連続したひとつづきの眠りではなく、二回に分割された眠りのパターンだったのではないか、という推察だ。今のように夜間でも明るさを維持できたわけではない時代において、ベッドで横になる時間は、今よりもだいぶ長かったに違いなく、となれば、それに合わせた睡眠があったとしても不思議ではない。


 となれば、今の私たちの「ひとつづきの睡眠」というのは、かつてと比べてずいぶんと不自然な眠り方、ということになる。そしてそれは、あるいはかつてもっていた夜の世界の豊かさから、自身を遠ざける行為であるのかもしれないのだ。なぜなら夜の闇というのは、人の目の届かない領域であり、そこでは良くも悪くも、人間の想像力が最大限に発揮される場所でもあるからだ。