教養書のすすめ

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人間による神の居場所の探求――『物理学と神』

 科学と神、あるいは神学というものは、相容れないものであるという意識が私たちにはあるが、たとえばアメリカにおける「創造科学」の変遷などを考えると、かならずしもそういうわけでないことが見えてくる。「創造科学」とは、おもにダーウィンの進化論を否定するために生み出された、いわゆるニセ科学に属するものであり、あくまで聖書の記されているとおりのことが起こったと主張することを基本とする。キリスト教創世神話を観察科学とみなし、それゆえに進化論だけを学校で教育するのは違法であるという訴えがじっさいに起こり、裁判沙汰にまで発展したのだ。何世紀も前の話ではない。科学の世紀と謳われた20世紀末のことであり、21世紀になってもなお、創造科学を学校教育に取り入れようという動きが向こうではあるという。


 池内了氏の著作『物理学と神』によれば、そもそも自然科学は、神が与えたもうひとつの聖書として自然をとらえる学問であり、自然を研究することは神の意図を理解するためのもの、神の存在を証明するためのものだったとある。自然の摂理は、そのまま神の摂理だという考えが、西欧ではあたり前のことだったのだ。この本のもっとも大きな特長は、そんな「神」という存在をひとつの基点として、人類がこれまで探求してきた物理学の歴史を読み解いていったものだという点である。


 いっけんすると、なんとも荒唐無稽な執筆姿勢のように思える。だが、この本を読んでいくとわかってくるのは、そうやって「神」の概念を取り入れることで、物理学のこれまでの歩みが非常によくわかるようになっている、ということだ。言い換えれば、物理学の歴史とは、人類がいかに神の存在を証明しようとしたかという歴史であり、またその神が物理学をとおして垣間見せる、およそ神らしくないさまざまな要素に翻弄されてきた歴史でもある。


 たとえば、天動説が主流だった時代において、地球は宇宙の中心であり、それゆえに至高の神もまた、地球上におわすものとされていた。ところが、天動説にしたがって惑星の軌道を求めようとすると、どうしても膨大な計算が必要となってくる。神が万能であるのなら、なぜこの世界を規定する法則をこんなにも複雑怪奇なものとしたのか、という疑問が人間側に生じてくる。やがて、数々の試行錯誤の末に、地球が太陽の周りを回っているという地動説が正しいことが発覚し、地球は世界の中心ではなくなった。では、神はいったい宇宙のどこにいるというのか?


 ニュートン万有引力の法則によって、あらゆる現象が物質の運動で説明できるようになった思いきや、ごく微視的な世界ではその運動が確率でしかわからないという量子論が登場し、いっぽうで宇宙の膨張が確認されたことで、宇宙が空間的にも時間的にも有限であることがわかってしまった。だが、物理学では「そうだ」とわかったところで、それが「なぜ」そうなっているのかを説明することができない、と著者は語る。なぜ空間は三次元なのか、なぜ光の速さは秒速三十万キロなのか――私たちの生きるこの世界には、今もなお数多くの謎が溢れていて、そのたびに物理学者は「神」という存在を考えずにはいられない。


 物理学であらたな発見があるたびに、その姿かたちが千変万化する「神」――それは他ならぬ私たち人間が、「神」の名を使って何を表現しようとしてきたのかを物語るものでもある。物理学と神の問題は、昔も今も一緒に議論されているのだ。