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教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

インターネットにおける「PV主義」について

教養書雑記

 これはより正確には「PV至上主義」と言うべきかもしれない。「PV」とは「ページビュー」のこと。つまり、インターネット上で公開しているウェブページやブログの特定のページが閲覧された回数のことを指す用語である。私はかつて、前世紀末ごろに自身のウェブサイトを立ち上げ、それなりに長く運営していたことがあったが、あれから十年以上が経った現在、ウェブサイトはいかにPVを集めるか、という点のみにあくせくしているように思える。そしてそれが、かつてあったはずのインターネットの面白さ、その魅力を損なってしまっているようにも思えるのだが、私がふとそんなふうに思った要因のひとつとして、前回のエントリーで紹介した湯浅誠氏の著書『反貧困-「すべり台社会」からの脱出-』がある。

toncyuu.hatenablog.com


 この本の内容は、日本における「貧困」の実態に迫るもので、私たちにとってもけっして無関係なものではない。なぜもっと早くこの本に出会っていなかったのか、とさえ思ったものであるが、そうした意思とは裏腹に、インターネット上でこうした重大な問題がいっこうに見えてこないのはなぜなのか、という疑問が出てきたのだ。より具体的には、大手メディアのニュースサイトやそのまとめサイトなどが、なぜこの問題を取り上げていないのか、という疑問である。


 結論から言えば、けっして取り上げていないというわけではなかった。著者たちが「反貧困」のために結成したさまざまな団体やネットワークは、インターネット上にウェブサイトをもっているし、そうした取り組みに対する記事も、きちんと検索すればちゃんと行き着くことができる。だが問題は、そこに行き着くためには、日本の貧困についてある程度の興味と関心があり、それに見合うような単語を検索サイトで入力しなければならない、という点だ。


 逆に言えば、日本の貧困問題にまったく無関心な人たちには、それらのインターネット上の情報が届くことがない、ということでもある。かつてSEO対策において、「グーグルの検索結果で最初のページに出てこない会社は存在しないも同じ」といった発言があったそうだが、これは今もなお真理だろう。インターネットの発達によって、誰もが情報を手軽に発信することができるようになった。だが、誰もが参加できるということは、それだけ競争相手が増えるということでもある。自分のウェブサイトをより多くの人に見てほしい、より多くの人とネット上でつながりたい――そうした人びとの欲望が際限なく増大していった結果として、「PV(至上)主義」という言葉が生まれてきたように思う。


 インターネット上の情報は、新聞やテレビといったメディアの情報とは異なり、人びとの関心の内容によって大きな偏りが生じる。ようするに、興味のある事柄しか目に入らないということで、これは以前から言われてきた、メディアとしてのインターネットの欠点であるが、いかにネット閲覧者を自身のウェブサイトに引き込むか、というPV主義が、さらに情報の埋没に拍車をかけてきた。PVを少しでも上げるために、今話題になっている記事や事件は何かと探し、あちこちのまとめサイトがそれらを取りあげる。そのさい、大手週刊誌も舌を巻くような、いかにもセンセーショナルなタイトルをつけて、ネット閲覧者の関心を惹こうとする。あるいは、過激な発言や行為、ときには違法行為や犯罪行為さえ、ウェブサイトのネタとしてアップし、あるいは炎上すること(そしてそのことでPVを上げる)を見越したうえで、あえて人びとの反感を買うような言動をさらす。


 こうして、人びとが興味を惹きそうな話題や情報ばかりがインターネットでは注目されるようになり、それ以外の地味な、しかし重要な情報は、関心のない人たちにとってはまさに「存在しない」ものとしてスルーされていく。それはまるで、現代社会を蝕む「お金がすべて」という資本主義が、そのまま「PVがすべて」というPV主義に成りかわったかのようでさえある。そしてそれがある意味で真実なのは、こうした記事をインターネットで取りあげることで実際にお金を稼ぐことが可能になったことからも見てとれる。彼らにとって、PVとは文字どおり「お金」なのだ。


 そして、PVが低いウェブサイトの運営者は、「誰にも見てもらえない」「自分の意見は誰にも届かない」という感情にとらわれることになる。この構図は、『反貧困-「すべり台社会」からの脱出-』のなかで取りあげられている日本の貧困者が、さまざまな支援から弾き出されたあげく、最後には自分自身の生きる意味すら見失ってしまうという流れと非常によく似ている。


 社会のなかで、まるで交換可能なモノであるかのような自分を指して「透明な存在」と表現したのは、上田紀行氏の『生きる意味』である。インターネットという仮想世界は、かつてリアルな現実とは「別のもの」としての意味合いが強かったように思う。だが今は、リアルな現実世界のさまざまな要素がこの仮想世界にも入り込み、今ではその影響力は絶大なものとなってしまっている。はたしてインターネットは今、まさに仮想であるがゆえの有意性をどこまで保っていると言えるのだろうか。