教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

希望を捨てないという非合理――『なぜ人はニセ科学を信じるのか』

 たとえば「自由」というものについて、あるいは「民主主義」というものについて、私たちはほぼ無条件にそれが「良い」ものであると思っている。人は何かに束縛された状態よりも、自由であるに越したことはないし、民主主義は市民ひとりひとりの意見が政治や行政に反映されるためには必要不可欠なシステムであるのは、疑いようのない事実である。だが同時に、教養書を紐解いて調べてみると、「自由」にしろ「民主主義」にしろ、それらを意義あるものとして維持しつづけていくのは、意外と面倒くさいものであることが見えてくる。


 人が自由であること、そして民主主義がまっとうなシステムとして機能することは、言ってみれば理想論だ。現実に目を向ければ、人は思ったほど自由ではないし、民主主義も思ったように機能していないように見える。だが、それはある意味で当然のことだ。なぜなら、そうであるからこそ人は「自由」や「民主主義」を勝ち取るために不断の努力を積み重ねてきたのだし、その努力はこれからも続けていかなければならないからである。


 「自由」も「民主主義」も、誰かが与えてくれるような単純なものではない。だが人はときに、複雑怪奇な真実よりも、単純明快な嘘を信じてしまうような弱さがある。私がマイクル・シャーマー氏の『なぜ人はニセ科学を信じるのか』を手にとったのは、私自身が騙されやすい性格をしており、容易に騙されないような方法を知りたいという欲求があってのことである。著者は自身を懐疑主義者であると宣言しており、これまで「異星人によるアブダクション」や「超能力」、「臨死体験」から、ナチスによるホロコーストはなかったと主張する「ホロコースト否定論」や、聖書の内容を文字どおりあったものとして解釈する「創造科学」といったものまで、およそ「ニセ科学」と呼ばれるものについて、あくまで科学的合理性をもとに反論してきた経緯の持ち主でもあるが、この本を読んでいてわかるのは、懐疑主義者でありつづけることの、ある種の「しんどさ」とでもいうものである。


 この「しんどさ」は、そのままこの世で生きていくことの「しんどさ」にもつながるものである。人生はけっして順風満帆というわけではなく、ときに理不尽で不条理な目に遭うようなこともある。絶望や深い悲しみに生きる希望が失われそうなとき、弱った人の心はなんらかの拠りどころを必要とする。この本のタイトルにもなっている「なぜ人はニセ科学を信じるのか」という問いかけに対する答えは、まさにその点にこそあると著者も認めている。人は不安を抱えて生きるよりは、揺るがない何かにすがって安心して生きたい生き物なのだ。そしてその「揺るがない何か」を求める人の心に付け入るのに、「ニセ科学」ほど適任なものはない。


 ある事柄に対して、常に「それは本当なのか」という疑義を差し挟むには、それなりの時間とエネルギーを必要とするものだ。だが、それまでの人類の歴史は、常にそうしたこと――ある論に対して疑義を挟み、科学的検証をくり返してその正当性を確認する――の繰り返しによって発達してきたものでもある。著者のような懐疑主義者を貫くことは難しいにしても、そういった精神を、少なくとも人類の端くれとして忘れないようにはしておきたいものだと思わせる本だった。