教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

「正常」と「異常」の境界線の遷移について

 あえてタイトルに「正常」と「異常」という単語を使ったが、具体的に言えば、私たち人間の心の状態を指していると考えてほしい。その人の精神が健康な状態なのか、あるいは何らかの「病気」にかかっているのか――それは身体的な症状として、比較的わかりやすい体の病気とは異なり、これまではなかなか判断のつけがたいところがあったという実情がある。


 このブログを書く前は、もっぱら小説やミステリーといった本を読んできた私だが、そうした創作の世界において、とある分野の医学的病名がよく目につくようになったと感じたことがあった。たとえば「アスペルガー症候群」や「自閉症」、「サヴァン症候群」、「LD(学習障害)」といったものであるが、これらの症候群は、じつは脳や神経に対する障害によるものであることがわかっている。


 それまで、あたかも本人の人格に大きな問題があるかのように思われていたものが、むしろ身体的な障害に分類されるべきものだったということが、一般社会においてもようやく新党してきたことの証左として、小説のなかでも取り上げられるようになったわけだ。少なくとも、それらの症状が当人の努力や訓練でどうにかなるものではないという認識があるだけでも、大きな進歩だと言うことができる。


 何かわけのわからないものに対して、何らかの名前をつけることで、人間の秩序側に組み込んでしまおうという試みは、人間の想像力が生み出した知恵のひとつであるが、以前エントリーした松崎博光氏の『マジメすぎて、苦しい人たち』という本で取り上げられている「適応障害」については、むしろ明確なストレス因子によって体調を崩すようになった人たちの増加が、医学的病名として名づけされることを後押ししたかのように思える。というのも、この本を読むとわかるのだが、ストレスによって体調を崩すというのは、ストレス社会とさえ言われる現代においては、誰もが多かれ少なかれ経験するたぐいのものだからである。

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 似たようなストレスにさらされて、平気な人もいれば、うつ病的な症状に悩まされる人もいることが前提の「適応障害」は、上述した症候群同様、以前であれば病気とは認められないたぐいのものだったと言える。この本では「適応障害」は「鼻かぜ」のようなものだと指摘しており、ともすれば自然に完治することもありえると示唆しているが、逆に軽いものだからといって放っておくと、重篤な心の病に発展する恐れがあるとも書かれている。


 こうした、比較的軽い心の不健康状態について、医学的病名が与えられ、病気のひとつとして処方されるというのは、それだけ今の世のなかに「ゆとり」が生まれているということでもある。かつて、急速な工業化によって引き起こされた公害が、少しずつではあるが社会全体がその対策や予防に力を入れるようになったのと同様、ストレスがあってもなお我慢しつづけるよりは、明確な病気――健康ではないことをきちんと受け入れることが、世のなかの常識となりつつあるのだ。


 それまで病気ではなかった状態が、「病気」として扱われる――それは、世のなかの「正常」と「異常」の境界線がシフトすることを意味する。それが良いことなのかどうかはともかくとして、このシフトの方向が、そこで生きる私たちにとってより良い方向であることを願わずにはいられない。