教養書のすすめ

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失われた「大きな物語」を求めて――『定本 物語消費論』

 最近、私のなかで「物語を消費する」という表現がどうにも気になっているのは、他ならぬ私自身が物語を消費しているという自覚があるからに他ならない。小説や漫画、アニメ、ゲーム、最近では某動画サイトに投稿される二次創作物といったコンテンツは、かつて私が好きだったものであり、また今もなお好きでありつづけるものでもあるのだが、なぜそうしたものを飽きもせず「消費」しつづけているのかと考えたとき、そこには「物語」があるから、というのが一応の答えになる。


 ここで「一応」という但し書きをつけたのは、私の求めてやまない「物語」とはどういうものなのか、いまだ個人的に納得のいく説明ができずにいる、という理由によるものだ。かつて、大塚英志氏の『定本 物語消費論』を読んだときに、そうしたコンテンツの受け手が消費するのは、商品の作り手が提供する断片としての「物語」や「ドラマ」ではなく、その背後に伏せられた設定や世界観、すなわち「システム」なのだと看破したその慧眼に、素直に感服する思いがあった。その論の原点として「ビックリマンチョコレート」のシール集めに熱狂する子どもたちの現象を挙げているというのも、いかにもふさわしい観点だと感じたのだ。


 この本において、人々がそうした「システム」をたんに消費するだけでは満足せず、同人誌などの形でみずから物語を擬似創作することで、日本人から失われた「共同体」としての「大きな物語」へのアクセスを試みようとしていると著者は書いている。だが同時に、そのような「大きな物語」というのは、もはや幻のものと化している。どれだけ「システム」を消費してアクセスしようとしても、共同幻想としての「大きな物語」にはたどり着くことはできない――そして今という時代において、私たちはそれ以外の方法を知りえないままに、やはり同じように物語を消費しつづけているという状況がある。


 オカルトを消費し、反原発運動を消費し、天皇すら消費の対象としてしまったというこの本の論が、私の求める「物語」とどこまでつながるものなのかは、いまだよくわからないというのが正直なところだ。だが、手の届かない幻としての「世界」、あるいは「大きな物語」という考えは、不惑を超えたオッサンであるにもかかわらず、いまだ私の中二病的心を刺激するものがあるのもたしかである。少なくとも、理屈や論理だけでは割り切れないものが、自分のなかにはあるはずであるし、また必要なのだ。


 良くも悪くも、「物語」を消費することは、そのことの再認識にもつながる行為である。神秘的なイメージや壮大な物語は、基本的に私たち人間の精神を豊かに潤すものであり、たがらこそ人々は、たとえどんなに否定しようとも、心のどこかでそうした「物語」を求めずにはいられないし、その思いは手の変え品を変え、何度もサブカルチャー的現象として立ち表れてくる。