教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

贈り物としての情報――『街場のメディア論』

 内田樹氏の著作については、一時期ずいぶんと入れ込んでいたことがあった。さすがに今はそれほどではなくなっているのだが、当時「まぎれもない自分」というものについて悩んでいたさいに、「そんなものはない」という回答に行き着くことになったきっかけとなったのが、内田樹氏の構造主義的な教えにあったことはたしかで、それは私にとってはだいぶ大きな救いにもなったのだ。


 神戸女学院大学の講義を書籍化した「街場」シリーズのなかで、とくに『街場のメディア論』を取り上げたのは、昨今のマスメディア、たとえばテレビや新聞などのメディアを扱う業界の斜陽ぶりが、一読書家として気になっていたからというのがあるが、この本の最初の章で取り扱っているのは、就職活動における「適性」にかんすることだったりする。


 著者にとっての適性や能力というのは、その人の内側にあらかじめ備わっているわけではなく、外部からの必要性に応じて開花していくものだという持論をもっている。ゆえに、適性ありきで職業や就職先を探すというのは、本末転倒なことだと語るわけだが、本来メディアのこととはまったく関係なさそうなこの話が、じつはメディアの起源を理解するうえで重要な要素となっているのが、この本を読み進めていくとわかってくる。


 とくに興味深いのが、メディアの情報――とくに「著作物」について、贈与経済をあてはめて論じている点だ。「本を書くのは読者に贈り物をすることである」とする著者の考えの根底にあるのは、人類学でいうところの「反対給付」と呼ばれるものである。これは、「贈り物に対しては、それ相応の返礼をしなければならない」という義務のことを指しており、人類学のモデルは、この法則が人間社会の根幹を成すものという理論を前提としている。


 この「贈り物」という考えは、たとえば相手に対して贈り物をしたり、逆に相手からお礼の品をもらうといった、一対一で完結するようなものではない。それは言うなれば、最初から自分の渡すものが価値あるものという前提に則ったものであるが、この本における「贈り物」という意識は、それを渡す側ではなく、それを受け取る側によって発生するものとなっている。


 ある情報が発信されるさい、それを受け取る側が「これは贈り物だ」という思いを抱くことがなければ、当然のことながら「返礼義務」も発生しない。逆に、情報を受け取った側が、「これは私宛ての贈り物だ」と思いこむことで、はじめてそれは「贈り物」となり、それと同時に「返礼義務」も発生する。そしてこの、ある意味勘違いする能力は、非常に人間らしい考えでもある。


 たとえば私たちがはじめて本というものを手にするとき、その本はほぼ間違いなく家にあったものか、あるいは図書館かどこかで借りたものであるはずだ、と著者は指摘する。だが、そうやってタダで本を読んだ人のうち、何人かが本を読むことを面白いと思い、やがて自分で面白い本がないかと探すようになり、そして本に対してお金を払うようになる。そこには、一対一で完結するような関係は存在しない。最初に手にした本の書き手には何ら返礼はされていないが、受け取った側の「返礼」は、めぐりめぐって他の本への「代金」として回っていく。本とは、情報とは、本来そういうものであるはずだ、というのが著者の考えなのだ。


 この独自のメディア論が、どこまで正しいものなのかは、私には判定がつけられない。ただ、著者のこの直感的な知の結びつきは、物事を別の次元から捉えるという意味では、ユニークなものだと思っている。こういう教養の身につけ方をしたいものだとつくづく思う。