教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

バブル経済は私たちから何を隠していたのか

 ブログタイトルだけを捉えると、まるでバブル経済が何らかの意志をもって私たちから何かを見えないようにしていたかのように思われるが、じっさいにはバブル経済が弾けたことによって、それまではささいな事柄として放っておかれたさまざまな問題が、人びとの目を引く形で顕在化するようになった、というのが正しい。そして、ここではあえて「バブル経済」と書いたが、これは広い意味での日本の経済成長――戦後日本を経済大国へとのし上げた、右肩上がりがあたり前だった夢のような経済状態のことを指す。


 なぜこのような命題を考えたのかと言えば、これまで私が読んできた「教養書」の多くが、バブル経済の崩壊によって顕在化した日本社会の問題を取り上げている――直接的にではないかもしれないが、何らかの形でそこに絡んでいるという実感があったからだ。


 たとえば、白井聡氏の『永続敗戦論』では、「戦後=平和と繁栄」という図式が決定的に崩れたのは「3.11」からだとしているが、原発問題については「3.11」以前にも何度も議論になり、その危うさや欺瞞については指摘されてきたはずのものである。にもかかわらず、人びとが今ほどの関心を抱かなかったのは、基本的に自分たちの生活が豊かだったからに他ならない。そしてそれを支えていたものこそ、右肩上がりの「バブル経済」ということになる。もっとも、『永続敗戦論』のなかでは、その経済成長が成し遂げられたのも、東西冷戦の主戦場を日本以外の国に押しつけた結果にすぎないとも述べており、文字どおりの「バブル」だという皮肉が混じったものとなっている。


 あるいは、橘川幸夫氏の『暇つぶしの時代』がイメージしている、利益中心の工業社会の次のステージは、少なくともバブル経済のあり方が今後も続くとは思っていないことを前提としており、これまでとは違う形の「豊かさ」を「暇つぶし」と称してもいた。そして、前回のエントリーである上田紀行氏の『生きる意味』もまた、バブル経済の崩壊によって浮き彫りになった「透明な存在」としての自分、誰とでも交換可能な自分から、どう「かけがえのない存在」としての自分を取り戻すのかが「生きる意味」であると諭している。熊代亨氏の『「若作りうつ」社会』が問題視した「成熟の喪失」も、その大元には右肩上がりの経済成長という、戦後日本社会の歩んできた道のりが少なからず関係している。


 そもそも私の教養書へのこだわりも、いわゆる「団塊ジュニア」世代として、誰もが求めているはずの価値観――良い大学に入り、良い会社に入れば安泰という、まさにバブル経済の価値観にどっぷり染まって生きてきたツケのようなものだと言えなくもない。世のなかにはさまざまな価値観や生き方があるのだということを、今更ながら「教養書」という形で学んでいるにすぎないのだが、長引く不況と先行きの不安、そしてグローバル化による容赦ない自己責任論が、それまで人びとにあったはずの価値観を崩壊させ、かつてない不安にさらされていると考えると、今の日本社会に起きている現象の一部が、少しだけ見えてくるように思える。


 いわゆる「ネット右翼」なる言葉がネット上だけでなく、大手メディアでも取り上げられるようになったのは、それだけ彼らの存在が無視できないほど大きなものとなっているからであるが、そこには、上田紀行氏の言葉を借りれば「中間社会」――それはたとえば会社であり、学校であり、地域社会のことであるが――がまともに機能しなくなりつつあることとの関連性がある。人びとには本来、互いを支えあうような場が必要なのだが、高度経済成長は結果として、そうした場を奪う形となった。


 それでも、経済が上向きで誰もが多かれ少なかれ豊かな生活ができていた頃はそれでよかったのだが、今はそれも幻想となりつつある。「中間社会」を支えにできない人びとがどこに流れ込むのかと言えば、その候補のひとつとして挙げられるのがより大きな社会、すなわち国家そのものということになる。


 経済そのものは大切であるし、貨幣制度は便利なもので、それなしに生きるというのはあまりに極端な考え方だ。何より、不況が続くよりは好況に転じてくれたほうがいいに決まっている。だが同時に、自分たち以外の誰かの犠牲や、極端な環境破壊をともなってもやるべきことなのかどうか、という疑問も出てきている。こうした命題に対して、私たちは今こそ先人が残してくれた「教養書」のなかから、解決策を模索していく時期にいるのではないだろうか。


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