教養書のすすめ

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終わるに終われない「戦後」――『永続敗戦論』

 たとえば、「自衛隊」というものが日本にはある。これは、はっきり言ってしまえば日本の「軍隊」に他ならないものだと私は思っているのだが、日本の憲法では「軍隊」をもつことは禁じられている。仮に、「自衛隊」という言葉を知らない外国人があの組織を見れば、おそらく「軍隊」だと思うだろう。そのとき、「なぜ日本に軍隊があるのか」という問いに対して、何と答えればいいのか、私は今もよくわからない。いや、あれは「軍隊」ではなく「自衛隊」なのだ、という説明は、おそらく日本人にしか通用しない。いや、もしかしたら日本人ですら疑問を感じるものかもしれない。


 日本にはこうした「言葉遊び」めいたものがあるのだが、その最大のものとしてあるのが「終戦」である。白井聡氏の『永続敗戦論』が指摘しているのは、まさにこの「終戦」――本来は「敗戦」であるはずの第二次世界大戦が、いつのまにか日本では「終戦」という言葉で語られるようになったという点である。「終戦」という言葉には、「なんだかよくわからないうちに戦争は終わった」というニュアンスがある。それに対して「敗戦」は、文字どおり「戦争に負けた」である。そして戦争に負けた側は、その負けた責任を何らかの形で負わなければならないはずである。


 だが、戦後日本はその責任を何ら果たさないままに今まで過ごしてきたと著者は語る。それは同時に、日本にとっての「戦争」が永遠に終わらないままであることを意味する。日本が戦後一貫して、戦争の勝者であるアメリカに対する従属の態度をとりつづけるのは、まさに日本の「敗戦」を認めたくないという、無責任体質ゆえのものだとという著者の弾劾は、いわゆる「3.11」、東日本大震災における福島第一原発事故へと結びついていく。


 あの原発事故で、はたして誰が「責任」をとったのか、私たちは知らないままに今も生活を続けている。そしてその事故は今もなお、収束とはほど遠い状態であることを私たちは薄々感づいている。それは、日本という国に住む人々に対する最大限の侮辱でしかないはずだ。だが、その侮辱は、戦後において永続的に「敗戦」の責任を負わないまま、見せかけの平和を享受してきた私たち日本人ひとりひとりが育んできてしまったものでもあるのだ。


 私たちにとっての「戦争」とは、第二次世界大戦のことであり、太平洋戦争のことである。そして、そうした「戦争」において常に意識させられてきたのは、自分たちが被害者であるというものだ。あの悲惨な戦争――二度の原爆を受けた国の人であるという認識は、じつはその対極にある日本の罪、つまり戦争における侵略行為の罪を意識させないことにつながっている。そして私たちは、そのことに気づきつつある。そのことをしっかりとした言説として表面化したことにこそ、この本の有意性がある。