教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

効率化を求めることの弊害について

 前回の教養書エントリーで取りあげた小松貴氏の『裏山の奇人』は、長野の「裏山」という、ごくありふれた場所に生息する虫たちの不思議を取り上げた良書である。そしてこの本で著者自身も語っているように、私たちの住む世界には、まだまだよくわかっていないことが満ち溢れている。読み終えたそのときは、そうした未知の世界があるということに妙な感慨があったのだが、逆にふと疑問にも思ったのだ。なぜこれらの謎は、二十一世紀の今の世に到るまで謎のままでありつづけたのだろうか、と。


 答えは非常にシンプルだ。この本で著者が取り上げた小虫羽虫のたぐいは、人類にとって「取るに足らない」存在だからである。放っておいても私たちに大きな危害を加えてくるわけではない。かといって、人びとの役に立つような要素もない。おそらく、絶滅してもそんなことに気づくことさえないような、取るに足らない小さな生き物であるがゆえに、誰もその生態を本気になって調べようとはしなかった。

 

いくらシロアリを暴食するからといって、ケカゲロウがシロアリ駆除に使えるだろうか。使えないだろう。あんなに数が少なく、養殖もできないもの、どうやったって人間にとって都合のいい道具にはならない。(『裏山の奇人』より)


 そんな虫たちの研究に著者を駆り立てるのは、「わかりたいことをわかりたい」という純粋な思いだ。「それが何の役に立つのか」という常識的な声など度外視した情熱と好奇心があったからこそ、長野の「裏山」は、著者にその秘密の一端を垣間見せることを許した。そして、そんな著者のひたむきで、迷いのないように見えるその態度は、知らず知らずのようちに「効率化」というものを追い求めるようになっている自分にとって、妙に眩しく、羨ましいものに思えた。


 私たちはともすると、最低限の努力で最大限の成果を求めがちなところがある。私とて、わからないことがあればまずはネットで検索するし、できることなら楽して金儲けがしたいと思ってもいる。それはたとえば、ビジネスの世界においては正しいことなのかもしれないが、最近はそれ以外の分野においても、そうした効率化を求めたあげく、あちこちでその不具合が発生しているようなところがある。無駄なことはできるだけしたくはない――だが、その「無駄」なことの積み重ねが、著者の数々の発見にもつながっている。


 この『裏山の奇人』という教養書は、私たちが無駄だと思い込んでいる事柄が、はたして本当に無駄なのか、と私たちに問いかけているように思えてならない。無駄なものとして切り捨てたものは、もしかしたら私たちにとって、とても大切なものだったのかもしれないのだ。


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