教養書のすすめ

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言語が国語になるということ――『ことばと国家』

 たとえば「日本語」という言葉を聞いたとき、私たちはひとつの常識として、そこに「日本人」という民族と、「日本国」という国のことを連想する。ひとつの言葉が、ひとつの民族や国家と深く結びついている、というのは、こと言語学の世界では相当に珍しいケースだという。たしかによく考えてみれば、「英語」という言葉には、少なくともひとつの国を連想させるものはない。英語を公用語とする国は無数にあり、また英語を母語として話す民族も多岐にわたる。田中克彦氏の『ことばと国家』を読むと、言語がひとつの国と結びつくさいの、その影響力の大きさをどうしても思わずにはいられなくなる。


 たとえば方言の問題を考えたとき、大阪弁や東北弁といったものは、純粋な「日本語」からすればけっして正しいとは言えない、という意識があるが、そもそも標準的な日本語とは何なのか、という問題を突きつめていくと、それもけっきょくはある地方の「方言」にすぎないものだった、とこの本では述べられている。地方によって無数に存在する数々の方言から、あるひとつを正しい「日本語」として認めたのは、他ならぬ日本という国である。より正確には、当時の政治的な思惑が絡んだ結果として、ある言葉は「言語」となり、ある言葉は「方言」として軽んじられることとなった。


 この本において著者が何よりも意識しているのは、言語というものが政治と結びつくことによって生じる歪みだ。言葉が政治の道具として利用されるということ――それはたとえば、ある民族に支配国の言葉を強要するという形で行なわれたりするが、およそ学問というものは、国家権力から独立した存在であるべきだ、という強い意思をこの本からは読み取ることができる。それは、ともすると文部科学省の言いなりになっているかのように見える、現在の学校教育にこそ必要な姿勢ではないだろうか。言語とは、それが他ならぬ人間が用いているものであるかぎり、けっして優劣などつけられるものではないのだから。