教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

立身出世への夢のために――『科挙』

 どうもここ最近、日本においても経済的貧富の格差が広がっているように思えるような事柄がよく目についたりする。それでも日本には義務教育があって、誰でも教育を受ける権利が与えられているし、より高度な学問を志す高校や大学にしても、試験制度によってすべての人に入学のチャンスがある。宮崎市定氏の『科挙』は、中国で長く行なわれていた官吏登用試験制度について書かれた本だが、読んでいて思うのは、科挙の歴史は、貧富の格差や身分の貴賎といった、人間が長年抱え込み、今もなお解決方法を見いだせないでいる命題と深く絡んでいるということである。


 科挙は、もともと天子の中央集権体制をより強固なものとするために生み出された試験制度であり、天子側としては、国の政治や行政の要となる優れた官僚を確保するのは何よりも重要な案件だ。だがそんな中央の思惑とは無関係に、低い身分の生まれである多くの民衆にとっての科挙とは、裕福な人生を手に入れるための、ほぼ唯一といっていい手段として認識されている。科挙はその合格率の低さと、数日にも及ぶ期間の長さが有名だが、世界でも類を見ないほど不正の入り込む余地がないといわれる、非常に過酷で完成された試験制度が生まれた背景には、なんとかして良い人材を手に入れたいという中央の思惑と、なんとかして官僚となって、今の境遇から抜け出したいという民衆の思惑が相乗効果となっていたと思われる。


 人生とはしばしばままならぬものであり、努力だけではどうにもできないことも多い。だが、生まれる時代や場所は選べなくても、どんなに貧乏な生まれであっても、科挙を受けるという選択だけは誰にでも開かれている。これはある意味で、非常に先進的なものの考え方――言い換えれば非常に合理的なものの考え方である。中国が日本よりも、むしろ欧米諸国と似ているという話をよく聞くが、少なくとも科挙という制度の合理性を考えてみれば、なるほどと納得するものがあるのだ。その一方で、科挙にまつわる都市伝説的な逸話も多く紹介されていて、そのあたりは今も昔も人の考えることは変わらないのだなあ、と思ったりもする。


 もっとも、科挙に合格するために何を勉強すればいいのか、という点については、各家庭が個別に教育していくしかなく、けっきょく家庭教師に金を払えるような裕福な家が有利という、世知辛い現実もあったようだ。そして今の日本でも、金の格差がそのまま教育の程度の格差につながっていきそうな雰囲気がある。