教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

動物を屠って食べるということ――『肉食の思想』

 たまに友人と焼肉を食べに行ったりすると、その友人はかならずといっていいほどご飯をどんぶりで注文する。せっかく焼肉のお店に来たのに、ご飯を食べるのはなんか変ではないかと思いながらも、気がつくと私もそのご飯を食べてしまっている。だって焼肉とご飯は合うんだもの、しょうがないじゃない、と自分に言い訳しながら、ふと鯖田豊之氏の『肉食の思想』という教養書を思い出す。


 日本人と西欧人との違いを考えるさいに、著者が着目したのが食生活だ。西欧人は、驚くほどたくさんの肉を食べる。どれほど穀物栽培技法が向上していっても、けっして肉食へのこだわりを手放さず、家庭で食糧としての家畜を飼うことをずっと手放さなかった彼らには、じつは日本人のような「主食」という概念がない、とこの本では述べている。


 ちょっと考えると、不思議なことではある。西欧人の主食はやっぱり肉なんじゃないのか、と私などは思ってしまうのだが、エネルギー効率という点ではけっして最適とは言い難い肉食は、米などの穀物とは異なり、「主食」にできるほど大量生産ができるわけではないのだ。でも麦類があるではないか、と言う意見もあるが、炊けばそのまま食べられる米とは違って、たとえば小麦はパンなどの生地に加工する必要があったりと、かける手間が段違いだ。


 じつは「主食」というのはきわめて日本人的なものの考え方である。日本人にとって米が主食であることは、ごく当然の常識であるが、およそ生きることに欠かすことのできない「食」において、その常識のない西欧人が、日本人とはどれほど異なった文化を形成していくことになったのか、という発想は、彼らをより良く理解するための大きな手助けとなる。少なくとも、「わけがわからない」と拒絶するよりは、より人間らしい態度だろう。


 キリスト教において、動物は人間の食糧として神から与えられたものだという位置づけである。そこには、人間と動物とのあいだに明確な境界線が引かれており、だからこそ西欧人は動物愛護を訴えながら、家畜を屠畜し料理するという矛盾を矛盾なく受け入れている。その動物愛護の精神も、あくまで「殺してはいけない」ではなく、「無用な苦痛を与えてはいけない」というものだ。そして著者が結論づけているように、日常的に接することになる家畜を食糧として屠畜するためには、そうした精神構造を長きにわたって育んでいくしかなかったのかもしれない。