教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

人は「言い訳」をする生き物

 人が行動するときに、常に何かを思考した結果としてそうしているわけではなく、むしろ機械的、自動的な行動に身を任せていることのほうが多い、というのは、ロバート・B・チャルディーニの『影響力の武器』に書かれていることで、人もしょせんは動物の一種であって、その反射行為からなかなか逃れられるものではない、という意味で、いろいろと考えさせられる本である。この本では、だからこそその自動的行為につけ込んで、他人を思い通りに動かそうとする人たちに気をつけるように、という注意喚起へとつながっていくのだが、私にとっては、そうした人のより原始的な部分が自分にもあるということについて、少しばかり救いになっているところがある。

 私はよく失敗する人間だ。そして悪いことに、その失敗をいつまでも引きずってしまうところがある。これは私のこれまでの人生において、なんとかしようと思いつつ、それでもなおどうすることもできないまま、今ではこの性質とうまく折り合いをつけて生きていくしかない、となかば諦めているものでもあるが、たとえば、あるまずい行動をしてしまったがゆえに失敗し、誰かに大目玉を食らうさいに、「なぜあのとき、あんな行動をとったのだろうか」と思い返しても、その理由がまったくわからないということが、じつによくあるのだ。

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「国民」という名の幻想――『レイヤー化する世界』

 十九世紀から二十世紀にかけて確立してきた資本主義という体制が成熟に達し、すでにあちこちで消化不良を引き起こしている状態であるというのは、これまで読んできた本でも指摘されていることである。資本主義の本質は、世界をウチとソトに分けたうえで、富を無限にソトからウチへと吸い上げていくことであるが、その境界線が曖昧になってきているがゆえに、富を内側に溜め込むことそのものが困難になっている、というのが主だった論調だ。インターネットの普及や企業のグローバル化戦略が、さらにその傾向に拍車をかけることになったが、これは見方を変えるなら、地球規模で富が均質化してきている、ということでもある。

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ネットことばという新しい世界――『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』

 以前、私はネット上にウェブサイトをもっていて、そこで長く本の書評を書いてきたことがある。現在そのサイトは、自身の環境の大きな変化があって更新を停止し、そのまま今に至っているのだが、再開できるかどうかは定かではない。というのも、私のそれまでの書評スタイルは、文章がけっこう長くなってしまう傾向があったのだが、そうした傾向がネットという環境にそぐわなくなっているのではないか、という思いが以前からあり、それが書評を再開するという行為を思いとどまらせているからだ。

 藤原智美氏の『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』という本は、そんな私のネット上の言葉に対する「そぐわない」という思いを、「ネットことば」という表現で言い表そうとしたものだと言うことができる。

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最適化だけを考えることの弊害――『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』

 世の中に、成功体験や成功事例を取り上げた本はそれこそ星の数ほどあるが、失敗体験を取り上げたものには、なかなかお目にかかったことがない。それはきっと、誰しもが成功を求め、夢みているからに他ならないからだと思っているのだが、ふと現実に目を向ければ、成功事例の裏には、出版された本のそれこそ何十倍、何百倍もの失敗事例があるものだ。だがそうしたものは、なかなか人の目に留まらないものだったりする。

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見えないからこそ怖ろしいもの――『「空気」の研究』

 エスニック・ジョークと呼ばれるものがある。これは、ある特定の民族や国民の性質を反映するようなエピソードを、面白おかしく誇張して語るという冗談のことだが、そのなかで日本人の特徴として挙げられているのは、「場の空気を読む」というものである。

 沈没しそうな豪華客船から乗客を海に飛び込ませるための説得の言葉として、日本人に対しては「みなさん飛び込んでいますよ」というセリフが適用されている。このジョークをはじめて知ったとき、なるほど、これは確かに日本人を言い表すものだと妙に納得したのを覚えている。みんながやっているから、自分もやる――私はどちらかというと、昔からひとりで何かをやることを好むところがあったため、どちらかといえば空気を読むよりは、空気を壊すほうだったと思っているが、こうした「場の空気を読む」ことそのものを、「研究」の対象としたのが、山本七平氏の『「空気」の研究』である。

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消費の原動力とは何か――『<快楽消費>する社会』

「快楽消費」という言葉に妙に惹きつけられて手にすることになった、堀内圭子氏の『<快楽消費>する社会』という本であるが、ここに書かれている「快楽」とは、あくまで消費者を消費行動へと走らせる要素として定義されたものであり、そこには従来の消費者行動を研究する学問において中心になっていた「効率化」とは、一線を画したいという問題定義があってのことだというのが見えてくる。

 たとえば、効率的な消費者行動として挙げられるのは、何らかの問題が発生し、それを解決するためにモノやサービスを消費する、というものである。空腹であるという「問題」が発生し、そのために料理を食べに行くという消費行動に出る、あるいは携帯電話が壊れたという「問題」が起こり、新しい携帯電話に買い換えるという選択をする、というのがそれにあたる。

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「生物」であることをどう定義するか――『生物と無生物のあいだ』

 生物とは何か、という問いは、非常にクリティカルで根源的な命題だ。たとえば、私たち人間は「生物」、つまり生きていると言うことができるとしよう。ではもっと小さなもの、たとえば細菌などはどうだろうか。非常に小さな単細胞生物で、ときには私たちに病気をもたらす病原体にもなる細菌は、はたして生きていると言えるのかどうか。そしてその細菌よりももっと小さく、普通の顕微鏡ではその姿をとらえることもできないウイルスはどうだろう。それらははたして、「生きている」と言っていいものなのだろうか。

 こうした生物の定義に対する方向性、つまり、生物のサイズをどんどん小さくしていき、その機能をどんどん限定していくことで、生物を生物たらしめるぎりぎりのラインを探っていこうという方向性は、福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』という本においても共通している。そしてその方向性を支えているのは、二十世紀の生命科学が到達した、生物の定義のひとつだ。

 

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