教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

見えないからこそ怖ろしいもの――『「空気」の研究』

 エスニック・ジョークと呼ばれるものがある。これは、ある特定の民族や国民の性質を反映するようなエピソードを、面白おかしく誇張して語るという冗談のことだが、そのなかで日本人の特徴として挙げられているのは、「場の空気を読む」というものである。

 沈没しそうな豪華客船から乗客を海に飛び込ませるための説得の言葉として、日本人に対しては「みなさん飛び込んでいますよ」というセリフが適用されている。このジョークをはじめて知ったとき、なるほど、これは確かに日本人を言い表すものだと妙に納得したのを覚えている。みんながやっているから、自分もやる――私はどちらかというと、昔からひとりで何かをやることを好むところがあったため、どちらかといえば空気を読むよりは、空気を壊すほうだったと思っているが、こうした「場の空気を読む」ことそのものを、「研究」の対象としたのが、山本七平氏の『「空気」の研究』である。

続きを読む

消費の原動力とは何か――『<快楽消費>する社会』

「快楽消費」という言葉に妙に惹きつけられて手にすることになった、堀内圭子氏の『<快楽消費>する社会』という本であるが、ここに書かれている「快楽」とは、あくまで消費者を消費行動へと走らせる要素として定義されたものであり、そこには従来の消費者行動を研究する学問において中心になっていた「効率化」とは、一線を画したいという問題定義があってのことだというのが見えてくる。

 たとえば、効率的な消費者行動として挙げられるのは、何らかの問題が発生し、それを解決するためにモノやサービスを消費する、というものである。空腹であるという「問題」が発生し、そのために料理を食べに行くという消費行動に出る、あるいは携帯電話が壊れたという「問題」が起こり、新しい携帯電話に買い換えるという選択をする、というのがそれにあたる。

続きを読む

「生物」であることをどう定義するか――『生物と無生物のあいだ』

 生物とは何か、という問いは、非常にクリティカルで根源的な命題だ。たとえば、私たち人間は「生物」、つまり生きていると言うことができるとしよう。ではもっと小さなもの、たとえば細菌などはどうだろうか。非常に小さな単細胞生物で、ときには私たちに病気をもたらす病原体にもなる細菌は、はたして生きていると言えるのかどうか。そしてその細菌よりももっと小さく、普通の顕微鏡ではその姿をとらえることもできないウイルスはどうだろう。それらははたして、「生きている」と言っていいものなのだろうか。

 こうした生物の定義に対する方向性、つまり、生物のサイズをどんどん小さくしていき、その機能をどんどん限定していくことで、生物を生物たらしめるぎりぎりのラインを探っていこうという方向性は、福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』という本においても共通している。そしてその方向性を支えているのは、二十世紀の生命科学が到達した、生物の定義のひとつだ。

 

続きを読む

老人が狙われる本当の理由――『老人喰い』

 オレオレ詐欺還付金詐欺など、いわゆる「特殊詐欺」のターゲットとなるのが高齢者であるという事実は、よくよく考えればとくに不思議なことではない。今の時代、一番お金を持っているのが高齢者であることは事実であり、じっさいにビジネスの世界では、お年寄りの貯蓄をいかに引き出すような商品やサービスを考えるのかに腐心しているし、政治家もまた、自身の得票数を伸ばすため、老人に有利な政策を打ち出すという流れが固定してしまっている。

 それでなくとも、日本は「超」がつくほどの高齢化社会へと突入してしまっている。資本主義がいまだ台頭する経済社会で、誰も彼もが多かれ少なかれ高齢者のもつ資本に目を向けずにはいられないのが現状であるが、ただそれだけの理由であれば、他にもお金を持つターゲットはいるはずである。鈴木大介氏の『老人喰い』という本によれば、平成二五年の特殊詐欺全体における被害者の約八割が、六十歳以上の高齢者であるということだが、このある意味で異常とも言える割合が物語っているものが何なのか、特殊詐欺を行なう若者たちの実態に迫ったこの本を読んでいくと垣間見えてくる。

続きを読む

その思想はいまだ遠く――『現代のヒューマニズム』

 ヒューマニズムとは何なのか、ということをあらためて考えたとき、私にとっての「ヒューマニズム」とは、その言葉の響きだけは知っているものの、それが指しているもの、意味するものについて、それほど深く考えることもなく今に至っている、ということに気づかされた。

 それまで漠然と「人道的であること」「人にやさしい」といったイメージしか持ち合わせていなかったヒューマニズムには、たしかに人道主義としての側面もあるが、その背景には、人間性というものが多分に抑圧されてきたこれまでの長い歴史がある。一般的なヒューマニズムにおける抑圧の対象としては、キリスト教の精神がそれにあたる。神の存在を至上とするキリスト教の教義を教え広める教会は、基本的に信者である人間に神の存在を疑問視することを許さないものだ。

続きを読む

コモディティからスペシャリティへ――『断る力』

 私にとって、勝間和代氏の書いた『断る力』を紹介するのは、多分に痛みをともなう行為でもある。なぜなら、そこに書かれていることは、私という人間がこれまでの人生において――少なくとも、仕事をするという一点において、それまで所属していた会社の環境にどっぷりと漬かってしまい、自己研鑽すること、つまりは、自分がそのけっして長くはない人生において何を目指し、どのような生き方をしたいのか、ということの探求や、そのために本当にやるべきことと真剣に向き合うといったことをずいぶんと怠っていた、という事実を突きつけられるからに他ならない。

続きを読む

論理学を論理で理解するということ――『入門!論理学』

 突然だが、私はここ数年「東方Project」と呼ばれる一連の同人シューティングゲームにハマっている。もちろん、最新作の「東方紺珠伝」もプレイしたが、これがいつになく難しくて、とりあえずeasyモードしかクリアできていないという状態である。


 ……まあ、そんな個人的な話はここまでにして、私がそんな話をしたのは、以下の動画のことを話題にする必要があったからに他ならない。


 この投稿動画は、形こそ東方二次創作であるが、じつは「努力と才能のどちらが優れているのか」という命題に対し、まず「才能」と「努力」という言葉についてしっかりとした定義づけをしたうえで、それぞれの言葉の次元を合わせるために、「努力→成果」「習慣→才能」という因果関係を明らかにするという、じつに論理的な段階を踏んでいるのだ。

続きを読む