教養書のすすめ

-読書でより良い人生を生きるために-

「生物」であることをどう定義するか――『生物と無生物のあいだ』

 生物とは何か、という問いは、非常にクリティカルで根源的な命題だ。たとえば、私たち人間は「生物」、つまり生きていると言うことができるとしよう。ではもっと小さなもの、たとえば細菌などはどうだろうか。非常に小さな単細胞生物で、ときには私たちに病気をもたらす病原体にもなる細菌は、はたして生きていると言えるのかどうか。そしてその細菌よりももっと小さく、普通の顕微鏡ではその姿をとらえることもできないウイルスはどうだろう。それらははたして、「生きている」と言っていいものなのだろうか。

 こうした生物の定義に対する方向性、つまり、生物のサイズをどんどん小さくしていき、その機能をどんどん限定していくことで、生物を生物たらしめるぎりぎりのラインを探っていこうという方向性は、福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』という本においても共通している。そしてその方向性を支えているのは、二十世紀の生命科学が到達した、生物の定義のひとつだ。

 

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老人が狙われる本当の理由――『老人喰い』

 オレオレ詐欺還付金詐欺など、いわゆる「特殊詐欺」のターゲットとなるのが高齢者であるという事実は、よくよく考えればとくに不思議なことではない。今の時代、一番お金を持っているのが高齢者であることは事実であり、じっさいにビジネスの世界では、お年寄りの貯蓄をいかに引き出すような商品やサービスを考えるのかに腐心しているし、政治家もまた、自身の得票数を伸ばすため、老人に有利な政策を打ち出すという流れが固定してしまっている。

 それでなくとも、日本は「超」がつくほどの高齢化社会へと突入してしまっている。資本主義がいまだ台頭する経済社会で、誰も彼もが多かれ少なかれ高齢者のもつ資本に目を向けずにはいられないのが現状であるが、ただそれだけの理由であれば、他にもお金を持つターゲットはいるはずである。鈴木大介氏の『老人喰い』という本によれば、平成二五年の特殊詐欺全体における被害者の約八割が、六十歳以上の高齢者であるということだが、このある意味で異常とも言える割合が物語っているものが何なのか、特殊詐欺を行なう若者たちの実態に迫ったこの本を読んでいくと垣間見えてくる。

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その思想はいまだ遠く――『現代のヒューマニズム』

 ヒューマニズムとは何なのか、ということをあらためて考えたとき、私にとっての「ヒューマニズム」とは、その言葉の響きだけは知っているものの、それが指しているもの、意味するものについて、それほど深く考えることもなく今に至っている、ということに気づかされた。

 それまで漠然と「人道的であること」「人にやさしい」といったイメージしか持ち合わせていなかったヒューマニズムには、たしかに人道主義としての側面もあるが、その背景には、人間性というものが多分に抑圧されてきたこれまでの長い歴史がある。一般的なヒューマニズムにおける抑圧の対象としては、キリスト教の精神がそれにあたる。神の存在を至上とするキリスト教の教義を教え広める教会は、基本的に信者である人間に神の存在を疑問視することを許さないものだ。

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コモディティからスペシャリティへ――『断る力』

 私にとって、勝間和代氏の書いた『断る力』を紹介するのは、多分に痛みをともなう行為でもある。なぜなら、そこに書かれていることは、私という人間がこれまでの人生において――少なくとも、仕事をするという一点において、それまで所属していた会社の環境にどっぷりと漬かってしまい、自己研鑽すること、つまりは、自分がそのけっして長くはない人生において何を目指し、どのような生き方をしたいのか、ということの探求や、そのために本当にやるべきことと真剣に向き合うといったことをずいぶんと怠っていた、という事実を突きつけられるからに他ならない。

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論理学を論理で理解するということ――『入門!論理学』

 突然だが、私はここ数年「東方Project」と呼ばれる一連の同人シューティングゲームにハマっている。もちろん、最新作の「東方紺珠伝」もプレイしたが、これがいつになく難しくて、とりあえずeasyモードしかクリアできていないという状態である。


 ……まあ、そんな個人的な話はここまでにして、私がそんな話をしたのは、以下の動画のことを話題にする必要があったからに他ならない。


 この投稿動画は、形こそ東方二次創作であるが、じつは「努力と才能のどちらが優れているのか」という命題に対し、まず「才能」と「努力」という言葉についてしっかりとした定義づけをしたうえで、それぞれの言葉の次元を合わせるために、「努力→成果」「習慣→才能」という因果関係を明らかにするという、じつに論理的な段階を踏んでいるのだ。

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「火」という光源の乏しさ――『失われた夜の歴史』

 骨董業界を舞台とした北森鴻氏のミステリー『狐罠』のなかで、とあるお椀の贋作を作成するシーンがある。その贋作師はわざわざ同じ時代の木材を手に入れ、同じ時代の道具をもちいて木を削るのだが、さらにその贋作師は、その椀の作成は秘伝ゆえに、おそらく夜に作られたものだということ、そして当時の夜は、今のような明るさではなかったことすら看破したうえで、どのようにその贋作を作るべきかを検討する――たしか、そんなシーンだったと記憶している。


 私たちがよく知っている夜というのは、その気になればいつでも「電灯」のなかに逃げ込むことができることを前提とする夜だ。とくに、本好きな私などはついつい忘れてしまいがちになるのだが、夜というのは本来、暗闇が支配する時間である。ためしに、ロウソクの明かりだけで本を読んでみようとすればわかるのだが、そのあまりに乏しい光源は、電灯の光に慣れてしまった私にとって、まともに読書することも叶わない、どうにも不便なものであり、もし電灯が発明されていなかったとしたら、私が夜にすることは、たぶん食事をして寝ることくらいだったのではないか、と真剣に思っている。

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自分が「ロートル」であるという認識

 前回紹介した西内啓氏の『統計学が最強の学問である』は、読んでいると「統計学」によってどんな因果関係でも数字で説明できるような気になってくる、という点で非常に興味深い本であり、また統計学のそもそもの成り立ちや、どういった経緯があってそうした計算方法が編み出されたのかといった、ラディカルな部分についても言葉を選んでわかりやすく説明している、入門書としてはかなりの良書である。

toncyuu.hatenablog.com


 だがそのいっぽうで、この本を読んでいくと、たとえばそこに書かれている統計の具体例についてはよくわかるものの、ではその計算式を具体的にどこでどういうふうに活用すればいいのか、という点については、残念なことにこの本を読むだけではよくわからない、という意見に落ち着いてしまう。


 そう、なんというか、金銀財宝が詰まっているとわかっている宝箱を目の前にしながら、その蓋を開けるための鍵が見つからないかのような、なんとももどかしい気分になってしまうのだ。

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